農作業をしながら、お金について考えてみた。お金が手段から目的になっていないか!?
来年の田植えの準備
昨年、収穫した米の藁を田んぼに返しました。
これが肥料になるはず。
藁を括っていた藁を剪定ハサミで切るのがすごく楽しい。
サクッ、サクッと切れる感覚が何とも言えない感じ。
そんな、農作業の中、こんな事を思った。
お金の価値って何なんだろう?
今、現代の社会でお金になる仕事って、実態のないものが多いような気がする。いわゆるIT系。アプリ開発をしたり、システムエンジニアだったり。
人に必要なものではなく、人を楽しくさせてお金を稼ぐっていうような。
アメリカの時価総額が高い会社であるGAFAと言われる企業は、なくてもこの世の中が不便にはなるけど、なくても生活していける。
しかし、農業をして作物を育てることがないと、僕たちは食べていけない。
ということは。農家さんが日本から、世界から、姿を消したら、生きて行くことはできない。
しかし。そういう人間が生きて行くのに不可欠な食べるものを生産している農家さんの給料は高いとは言い難い。
だから、何が言いたいということはないのだが、価値があるものに高い値段がつくと思いがちではあるが、現代の社会では、価値があるものが高い値段が付くとは言えないのではないかな〜?
人間も同じで、たくさん稼いでいる人が価値ある人間であると思われがちであるが、果たしてそうなんだろうか?
お金を稼ぐ仕事についているだけであって、価値ある人間であると定義するのは違うのかな〜って思ったり。
資本主義の価値観から見ると、お金を稼ぐことは、価値あることである。
原子時代の人たちは何に価値を置いてたのだろうか?
しかし、少し時代を遡ってみると、たくさん獲物を捕らえて、村に持って帰ってくる狩猟者が価値ある人間だと認められたり。
生まれた家系が貴族だったから、価値ある人間だと思われたり。
アフリカなどの貧しい国に生まれたら、お金持ちになることは、日本に生まれることに比べて難しい。
だったら、そういう貧しい人たちは、価値のない人間になるのか?
そもそも価値とはなんだろう?
資本主義の世の中では、お金を稼ぐ能力だと仮定しよう。
価値ある人生とは?に言い換えよう。
では、自分にとって価値ある人生とは、『幸せな人生を送ること』だとしよう。
もちろん、幸せになる為には、お金を稼ぐ能力も必要だろう。
つまりは、お金を稼ぐことは、幸せになる為の手段であって、目的ではない。
しかし、その手段が目的になってしまっているのが、現代ではないだろうか?
例えば、中学時代の部活動を例にすると。
僕は野球部だったので、野球を例えにする。
ほとんどの中学生にとって、野球部に入るのは、プロに入るためではないはず。
野球というスポーツを通じて、仲間ともに一つの目標に向かって努力することで得られるものに価値があるはず。
それが部活動の意味であるはず。
しかし、野球をうまくなることや勝つことに固執してしまうと、本末転倒。
手段が目的に成り下がってしまっている。
つまりは、お金を稼ぐことが、幸せになる為の手段であって、目的にならないように気をつけたいと思った今日この頃でした。