さみしさと後悔の人間関係
さみしさを感じている。
おとなりのおとなりさんが引っ越してしまった。僕たちが引っ越したときに一番に挨拶に行って、気さくな方でよかった〜と思ったことを覚えている。同じく犬を飼っていて、庭に出たときに顔を合わせると嬉しかったし、外でたびたび会うと挨拶をしたり。言ってしまえばそのくらいの交流だったけど、世帯数も少ないこの建物の中で、同じ階ということもあって身近に感じていた。
先週、うちの庭のほうにワンちゃんを連れてつむと遊ばせてくれた。まさかあのときが最後だったとは... 引っ越しがあったからこっちに来て遊んでくれたのかな。「また遊んでね〜」なんて言って別れた気がするし、もう遊べなくなってしまったと思うととてつもなくさみしくなった。
こう思っているのは一方的かもしれないし、気持ち悪いかもしれない。でも事実、いなくなってしまうことによるさみしさを感じている。
僕はまだ二等親の範囲内で死別を経験したことがなく、身近な人と別れたことがない。だから別れに鈍感なのだと思う。一方的にいなくなってしまうような別れがどういうことなのかを知らない。誰にでも「また出会えるだろう」とのんきに思っているところがある。もちろん多くの場合はそうかもしれない。でも僕はその”のんきさ”がずば抜けている自覚がある。「また出会えるだろう」のスパンが20年後に設定されていたりする。
引っ越す前にもう少し交流があれば、教えてくれたかもしれない。いつも後ろに置きがちな僕の人間関係。それではダメなのだ。気付いたときにはいなくなっている。同じ風景は二度と戻らない。さみしさに後悔が滲む。後悔を残したくないのであれば、人間関係に前のめりになるべきだという教訓を得た。
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