「毒親」のせいで。そう言うのは簡単でしょうよ。
はじめに
本記事にはセンシティブなテーマ及び表現が含まれます。
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また、「毒親」という言葉の定義は難しいと考えています。
体罰や虐待に実際苦しめられていて誰にも助けを求めることのできないたくさんの子どもたちがいること、そして過去のそういった記憶により現在も苦しめられて生きているたくさんの大人たちがいるということを理解しています。
私はそういった過激な親たちのすることを「毒親」といった簡単な言葉で表現してはいけないと考えます。
小児虐待、体罰、その他ヒトとしての尊厳を奪う行為は全て法的に罰せられるべきであり、「罪」と表現するのが正しいと考えています。
よって、本記事においては「毒親」という言葉を、明確に罪だと定められるような行為はしないが子に対して悪影響を及ぼしかねない言動をなす親、と定義し、用いることとします。
最後に、現在もなお虐待や暴力により苦しんでいる子どもたちが法律や公的機関によって守られることを切に願います。
また、そうした記憶により心を痛めている全ての人々の傷が癒える日が来ることを、心よりお祈り申し上げます。
思い出すこと
文字を追いながら、気が付いたら泣いていた。
身に覚えのある地獄だった。
このまま死んでしまおうか、と冗談か真か、言われたことがある。
真っ暗な住宅街。ハンドルを握る母の手が震えていた。
初めのうちは他愛もない言い争いだった。
ことの発端はほとんど覚えていない。が、いつの間にか火が付いて、車内は阿鼻叫喚の地獄に一変してしまっていたのだ。
「なんでそんなことになるの。」
明確に命の危険を察知した私は、考えることもなく叫んでいた。
空地の横に車を止めて、母は泣きじゃくりながら言った。
「だって。だってあなたは私を許さない。どれだけ謝っても。私をいつも冷たい目で見る。あなたは、もう。」
私のことが嫌いなんでしょ。
そう叫んで、また激しく泣いた。
正直に書くと、私は母が好きか嫌いか、一言でいうことはできない。
親元を離れた今では、何がそんなに私を苦しめていたのか思い出せないけれど、確かに憎しみの感情を抱いていたことを覚えているからだ。
外に出てみよう
20XX年12月某日、精神的にまいってしまって、数日の間家を空けたことがある。
家出というには短すぎる家出、まあちょっとした両親への反抗だった。
母の大切にしているコレクションをなぎ倒し、ひとしきり家で暴れてから、紺色のトランクケースに洗顔料やらノートパソコンやら必要なものを詰め込んで、両親のいないうちに扉を開けて外に出た。
冬特有の張り詰めた空気によって、あたりはしんと静まりかえっていた。
冷たい空気は熱くなった私の頭をすぐに冷やして、ああ私は何をしているのだろうか、と時折思わされた。
家を出たものの行く当てもない私は、友人に貢物をして居候させてもらうことによって、なんとか数日の間をやり過ごしていた。
いい加減行く当てもなくなってきたところで、父と母からの何度目かの「話をしよう」といった連絡が来て、私の家出体験は終了した。
傷がついたら治らない
その場では和解したはずだった。
しかし母は、「まだあなたは私を許していない」と言ったのだ。
家を空けたあの日から、あなたにどう話しかけていいかわからない、と。
あまつさえ、死にたいと思っていたと、ここで死のうかと、言ったのだ。
どうやら私は母親に対して希望的観測をしすぎていたらしい。
彼女もとうに限界だったのだ。
私は覚えている。
中学生のころ、母親に「あんたなんか産まなきゃよかった」と言われたことを。
何があってもそれだけは言ってはいけないでしょう、と落胆したことを。
私は覚えている。
私の罵詈雑言に耐え切れなくなって、あざにもならない、痛みも感じないほどの弱い力で母親が私を何度も叩いたことを。
子どもみたいにわんわん泣いて、いつでも振りほどけそうなほどの弱い力で、私の腕を掴んだことを。
「れんがいなきゃ生きていけないの。」と泣きながら叫んでいたことを。
弱い人だった。
こんなにも弱い人を傷つけてしまっていたことに罪の意識を感じて、私は泣いた。
宇佐見りん「くるまの娘」を読んで
さて、重苦しい前置きは一度やめにして、本題に戻ろう。
私が本記事にて紹介する本は宇佐見りんによる「くるまの娘」である。
この本の主題はおそらく「家族の歪み」であると思う。
私自身の固まりきっていない感情が、インターネットの海にさらわれて不明瞭になることは避けたいため、実際何を主題とした物語なのかはここでは調べていない。
鬱で学校に行けない、進学校に通う女子高生である「かんこ」と脳梗塞により半身まひが起こり、心身の不調が起きてしまっている「母」、教育熱心なあまり手や足が出てしまう「父」、そんな家庭に嫌気がさして家をでた「兄」、現在は祖母の家から通学している「弟」を中心として、家族の関係性にフォーカスして物語は展開されていく。
ここからはネタバレになるが、前置きとして書いた私のひと冬の事件は、この物語の終盤に起こった一家心中未遂事件に重なる。
「限界なのよ」はち切れんばかりに、「あたしの病気のせいって、あたしのせいって、言うのなら」怒号が鳴る。「あたしが、終わらせる。あたしが悪いから、あたしが、終わらせる」かんこは、はっとした。あの父の言葉は、母の中では「曖昧にされたくない」ことだったのだ。
この文章は私に母親の気持ちをようやく理解させた。
私の母親にとって、「娘が母親のことを好きであるか」ということは、あいまいにされたくないことだったのだと思う。
(余談)「最近なんか彼氏のこと好きかわかんないんだよね~」←どういうこと?
余談ではあるけれども、私は人に対する、好きか嫌いかという概念が、やっぱりどうもわからない。
あの子のここは良いし、ここは嫌だ。
誰かのことを好きか嫌いか、考えるだけで頭がぐるぐるしてくる。
友達のみさきちゃんが好き。りこちゃんは嫌い?
でも、みさきちゃんはこの間、私に課題を押し付けてバイトに行った。りこちゃんは課題を手伝ってくれた。
みさきちゃんはいつも私の話を聞いてくれる。りこちゃんは自分のしたい話ばかり……。
人それぞれ、良いところと、悪いところとある。
良い側面が見えた時はその人が好きだし、悪い側面が見えた時はその人が嫌いだし。
単純すぎるのかもしれないけれど、人の性質は複雑なのに、二択を迫られるのはなんだか無理があるように思われる。
りこちゃん、見てますか?
「最近なんか彼氏のこと好きかわかんないんだよね~」ってよく言ってくるけどさ、「最近」ってなんですか。
当初は明確に好きとか嫌いとかあったっていうことなんですか。
人と長く関わるほどいやなところが見えてくるのって当たり前じゃないんですか。
誰と関わろうと結局いやなところのない人なんていなくないですか。
いやな部分があれば嫌いに分類されるんですか。
じゃあ私のこと嫌いなんですか。たまに無視するし。
よくわかんないのでその話振らないでください。むりです。
そういうわけで、私は母のことが、好きだし、嫌いである。
私のことが嫌いなんでしょ、と言われたときには言葉が詰まった。
正直そうです、とも思ったし、全然そんなことはないです、とも思った。
それゆえに曖昧に返事をしてしまった。
それが余計に母親の傷つきやすい心を痛めたのだと思う。
母にとっては好きか嫌いかが一番重要なところで、曖昧にされたくないことだったのだ。
だれも逃がさない
一般に(と前置きするのが正しいかどうかは定かではないが)、家族及び家庭というものは、どれだけ揉みくちゃになったとしても、バラバラになりかけたとしても、結局のところ一生一緒エンゲージリングよりも強い呪いで結ばれた存在なのである。
状況によってはこの世で最も深い絆で結ばれた心安らぐ最高の居場所となるであろうし、また状況が変われば、地獄から誰一人として抜け出すことを許さない最悪の沼地と化すのである。
家族間の歪みは、この誰一人逃れられないという性質によりもたらされる。
どれだけ喧嘩をしていても、どれだけ不満がたまっていても、ともに日常生活を送らねばならない。
忙しく日々を過ごす中で、わざわざ議論して、弁護して、分かり合う機会をつくるわけもなく、なあなあに生活のことをしているうちに、気が付けば日常に復帰していて、適当な謝罪と一時の和解によって、家族の恥である決裂の過去はなかったことのように扱われる。
この曖昧さが、時として家族に憎悪の感情をもたらす。
「お前は以前こんな不当を味わっただろう」「お前はまだ許していないだろう」と、悪魔にささやかれるかのように、ふと思い出しては憎悪の念に駆られ、さらに大きな歪みを生じる。
それが家族の地獄である。
「毒親」のせいで。そう言うのは簡単でしょうよ。
実のところ、私がこの本を読んだのは、この本が「毒親」をテーマにした本として非常に秀逸であるとどこかで見たことがきっかけである。
だが、すべてを読んだうえでなお思う。この本は「毒親」について書いているのだろうか?
私はそうは思わない。
心中未遂が起きたのは、「母」のヒステリーが原因か。「父」の体罰が原因か。「兄」の逃亡が原因か。「弟」の弱さが原因か。
どれも違う。
真の原因は「家族」にある。
歪みを生み出すきっかけをその時ごとに真剣に捉えてこなかった、真に改善しようとせず目を背け続けてきた「家族」そのものに責任がある。
誰もがあいまいにされたくなかった過去を、きちんと裁き裁かれたかった過去を持っている。
事が起きた時に話し合うべきだったのだ。
家族員の犯した過ちを、正さなければならなかったのだ。
それができなかったから、それぞれが憎悪を持て余している。
この本にはそういった、家族の歪みが生じては大きくなっていく様が、よく書かれている。
あまり上から目線な物言いをしたくないのですが、その、とても良い本です……。
負の連鎖に思うこと
これまでの話とは変わるが、「父」の体罰癖の原因ともなった生い立ちについて触れているのもまたよかった。
「父」はとても貧しい家庭で育った。
「父」の母親はとにかく遊び人で、奔放な人だった。
それに精神を病んだ「父」の父親は「父」含む三兄弟に対して暴力をふるった。
そんな中で「父」は文字通り死ぬ気で勉強して、良い大学に入り、良い企業に就職した。
だからこそ、「かんこ」含む子どもたちの教育に熱が入り、道から外れたものを侮蔑する、暴力をふるう、そういった父親になったのであった。
「毒親」の子もまた「毒親」となる運命だ、といった話はよくささやかれていることだと思うが、実際、私もそう感じている。
”Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.”
というアインシュタインの名言からも見て取れるように、その人にとっての正しさ、常識というのは大人への成長過程において獲得されるものだ。
いわゆる「普通に」育った人でさえ、何がこの世で絶対的に正しいことなのか、ということをわかるはずもないのに、歪んだ環境で育った人が、「普通」を、正しさを、わかることなどできるはずもない。
以前児童福祉に携わる方にお話を聞いたことがあるが、暴力による虐待を受けて育った大人は、幼少期にそれが当たり前だと教育されているため、自分がされたことと同程度に酷いことはしないにしても、軽い暴力などを容認する事例が数々みられるとのことである。
虐待などに対しておかしいと感じていたとしても、何が正しいか、一人考えているだけでは、バランスの取れた解を得ることは難しい。
私の母親も家庭内暴力を幼少期に見ていたという歪さを持っている。
私の嫌悪していた、母親のとったあらゆる行動は幼少期に歪められた常識の生み出した結果なのだろう。
その過去を想うと同情する。
「かんこ」も物語の中で幾度も「父」の過去に思いを馳せている。
ひとつわかったことがあった。
背もたれを蹴ることもまた暴力であるということだった。そして、それが発露する瞬間、かんこはその行為を正当なことのように感じた。父も同じだったのではないかと思う。父もまた、背もたれを蹴るような、つまり「被害に対する正当な抵抗」の感覚で、家族に対して力を行使していたのではないか。思えば父は、傷つきやすいところがあった。その場のかんこたちの言うことに傷つくのは、もっと根深い問題があるのではないかとも思う。祖母の顔が浮かんだ。だがきっとそれだけではないだろう。それに亡くなった祖母の背景にも、さかのぼればまた何かが、あるはずだった。みんな、背もたれを蹴る。背もたれを蹴るように、自分や身内の被った害への抵抗だと信じて、相手を傷つける。
だからと言って、と思う。だからといって、だからといって……。
まさに、「だからといって、だからといって……。」である。
その人の性質の原因は過去にある。
「毒親」に限らず、やたらと嫌な言い方をするあの人も、罪人も、その人の性質の原因はだいたい過去にある。
だからといって、同情するだけでは何も変わらない。
家族の歪さを正そうとして、家族員の過去を憐れんでも、何も変わらない。
現状を変えなければ、不幸が続くだけだ。家族で傷つけ合うだけだ。
一時の残酷さをもってしてでも、変えなければならない。
家族に悩む全ての人へ
親に悩む全ての人へ、家族に悩む全ての人へ、どうか逃げる、離れるという選択肢を罪だと思わないでほしい。
家族という関係について悩む中で、自分自身が加害者なのか、被害者なのか、わからなくなる時があっただろうと思う。
けれど、どうか離れてほしい。
責任の所在など考えずに、誰の気持ちも慮ることもなく、ただ逃げてほしい。
私は今、家族と適切な距離を持って過ごせている。
誰を憎むこともなく、誰に傷つけられることもなく、家族に会った時も、正しい愛情をもって接することができていると、心から感じる。
結局「かんこ」はくるまで生活することによって心の安寧を取り戻した。
人にはそれぞれ適切な距離がある。
家族の無遠慮さは気楽かもしれないが、やはり近すぎる。
家族を愛したいなら、大切に思うなら、まずはその距離を見つけなくてはならない。
「くるまの娘」は家族関係における苦悩を代弁してくれるような、とても良い物語だった。
悩んでいる人は、ぜひ一度読んでみてほしい。
(どうでもいい追記)
本に関して正直に感想を言うと、前半はちょっと読みにくかった。
おそらく家族における問題がこの話において最も重要な点であるはずなのに、「かんこ」の心情と紐づけられない単なる情景描写が、家族における描写と同程度の量あって、どこが本当に言いたいことを書いている文章なのかがわかりづらかった。
加えて、お風呂屋さんに行ったときの、シャワーを口に含んで飲みこむシーンとかは特に、共感性が持てないうえに利用者としてちょっと気持ち悪いなあという印象を受けたのだけれども、こういう主題にかかわらないにしては詳細に書いてある箇所が何個かあって(卵アレルギー、おじさんがカセットコンロをつけてたばこを吸うシーンなど)、重要ではないはずなのにそれなりの文章量で書いてあるのが、蛇足に感じた。
それと、96ページの「兄が破いた。」→「かん子は泣いた。」→「火のついたように怒った」って主語が一瞬にしてころころ変わったような気がしたのだけれども、それがわかりづらかったし、84ページの「さっきのは姉ちゃんもひどかった」も、その発言をした部分が書かれていないと思うのだけれども、急になかった場面を組み込まれたから混乱した。
後半はスピード感もあったし、主題についてだけ掘り下げているからノイズが少なくてすごく良いと思ったのだけれども、ちょっぴりそこらへんが気になりました。