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雑感『「GIFT」上映+石橋英子ライブ・パフォーマンス in 仙台』(2024/12/16)
「GIFT」は「悪は存在しない」と同じ映像素材を用いて作られた、音楽家・石橋英子のライブ用サイレント映像である。
きっかけは石橋から濱口への映像制作のオファーだった。『ドライブ・マイ・カー』[21]で意気投合したふたりは試行錯誤のやりとりをかさね、濱口は「従来の制作手法でまずはひとつの映画を完成させ、そこから依頼されたライブパフォーマンス用映像を生み出す」ことを決断。そうして石橋のライブ用サイレント映像『GIFT』が完成した。それと共に長編映画「悪は存在しない』が誕生することとなる。(中略)「GIFT」では石橋による即興ライブ演奏が、濱口による映像に干渉を及ぼし、常に「一回きり」の映像-音楽体験が生まれる。
よって、「GIFT」はそれ単体で成立する「サイレント映画」ではない(濱口自身、パンフレットの中で「音声のない映像」と称している)。「GIFT」の鑑賞には、石橋のライブパフォーマンスが必ず伴う。
それをふまえたうえで、本稿ではあえて石橋のパフォーマンスには触れず、サイレント映像としての「GIFT」について、すでに論じた「雑感『悪は存在しない』」と比較のうえ述べる。
なお、「GIFT」と「悪は~」は出自が同じであるものの、作品間の異同から他方へと意味づけを敷衍することは、なるべく避けたい。
さて、「GIFT」は「悪は~」と時系列の異同があったり、未使用の映像素材が採用されたりしてはいるものの、物語は基本的に踏襲している。一方、セリフをはじめ音声は伴わないので、人物紹介、シーンの説明などは適宜、字幕が用いられる。
そもそも「GIFT」は、濱口監督が「悪は存在しない」の15~16時間におよぶ撮影素材を、編集者の山崎梓に預けたところから胎動を始める。
当初、山崎は「悪は~」の脚本を渡されず、「ラッシュでも編集作業中もずっと音無しの状態で見ていた」という。「それぞれの顔や表情を見てカットを選んでいるので」、「壮大なNGテイク」を使った場合もあったらしい。
また、そのような「ひたすら視覚的に」山崎がつなげていったモチーフの並びでは40分ぐらいの尺が限界で、石橋のオーダーである「75~90分くらいの映像」には足りなかった。そこで濱口は「悪は~」の編集を山崎に見せて、ここで初めて「物語を共有し」たが、脚本は渡さなかったという(「GIFT」の編集クレジットは山崎単独。「悪は~」は濱口との連名。しかし、実作業は「悪は~」を濱口が、「GIFT」は山崎がそれぞれ行っている)。
上記のような事情で、「GIFT」においての「悪は~」との異同には、主に以下のようなものが見られる。
・「悪は~」のNGカット、もしくは単純に落とされたカットやシーンが存在する
・サイレントのため、セリフが限定される(セリフのすべてが字幕化されるわけではなく、字幕も役者の発話のままとは限らない。また、セリフの応酬の尺自体が短縮される)
・字幕により、「悪は~」では語られない状況説明、心理描写が挿入される
具体的に見ていこう。
巧ーー異様さ、不穏さの増幅
説明会の後、高橋と黛に連絡先を求められたとき、巧は「名刺はない」と告げ、高橋に「持ってる?」と聞く。高橋は名刺を出そうとするが、黛が察してスマホを取り出す。また、高橋と黛を連れて水くみをした後、巧は高橋に「たばこ吸う?」とだけ聞く。高橋は戸惑いつつも、一本欲しいのだと気づき、手渡して火をつけようとするが、巧は自分のライターを用いる。高橋の気の利かなさを表現する場面のようにもとれるが、二人のコミュニケーションが常にちぐはぐであり、それを黛が冷静に見ているという構図は劇中で揺らぐことはない。
こういったちぐはぐなコミュニケーションは、「GIFT」ではざっくりカットされている。これにより、巧の一種の異様さ、不穏さがより強調されているように感じられる。
花ーー融合への示唆
花にとっても、母を失ったショックが小さいはずはない。劇中では同年代の子どもたちと一緒にいる姿は描かれず、巧が学童に現れる場面は常にお迎えの時間を過ぎているので、花が集団に交じって遊んでいるのかはわからない。説明会の日、花は公民館の外からガラス戸を開けようとするが、中にいる住人にとがめられ、「原っぱ」に向かう(ここで鳥の羽根を採取し、駿河に手渡す)。
説明会の日、「GIFT」では、花が公民館の前でほかの子供たちとボール遊びをしている場面が採用されている。一方で、このあと一人で「原っぱ」へ向かう場面は踏襲される。
さて、その学童からの帰り道、花は巧とともに、ヤマバトかキジの羽根を拾う。その夜、彼女は夢を見る。シカの水場と原っぱ。巧が新たな羽根を拾い、花は彼と手をつないで歩く。
学童からの帰り道、お迎えに遅れた巧が、花に追いついて森の中を連れ立って行く場面には、状況説明の字幕が付されている。いわく「父と娘が共有する時間」(うろ覚え)。
また、花の夢にも説明の字幕が当てられる。その夢は幸せなものであったこと。花は夢の中では鳥であり、シカであり、父でもある、と。存在と存在、存在と自然との合一への示唆は、ラストシーンにつながる布石か。
高橋と黛ーーうすっぺらさ、正しさの忌避の後退
「悪は~」が一気に会話劇へと変貌していくきっかけとなったのが、髙橋と黛の存在だ。とくに説明会での住人とのやりとり、その後の車中での会話が印象的だったが、「GIFT」では当然ながら大幅に圧縮されている。
代わりに(?)、グランピング場建設予定地で、高橋がスマホで黛を撮影する場面が挿入される。車中での場面も笑い合っている(マッチングアプリのくだりだろう)ので、まるでこの二人が「できている」ようにとれなくもない。
また、うどん店での「あったまりました!」や、薪割りのシーンでの「気持ちいい~」はセリフとしての発声がないので、髙橋の「うすっぺらさ」を描くための複雑さや隠微さが後退し、「(シカは)どこか別のところに行くのでは?」(字幕で示される)という、心なさが強調されている。
黛も同様で、字幕で前職が介護職と示されるにとどまり、下記のような彼女の「正しさ」の忌避と回帰、あるいは髙橋への軽い軽蔑、微妙な距離感なども、きれいに排除されている。
たとえば黛の前職である介護の現場は、おそらく「正しさ」の原理の働きが強く、彼女を行き詰まりへと導いていったことは想像にたやすい。「正しさ」の裏返しが「わかりやすいクズ」の行いだとしたなら、社長やコンサルに盲従して事務的にプロジェクトを進めるのが、じつは「正解」だったのかもしれない。しかし、巧や駿河にほだされることで、黛も自らの意志で対話と協調へ一歩足を踏み出してしまう。
「時間の許すかぎりお話を聞かせてください」
結局、黛は前職と同じ「正しさ」にくみすることになる。
*
一方で、当然ではあるが薪割り、水くみ、森の中の徘徊といった言葉のないシーンの没入度は、石橋の即興の音楽も(が)あいまって、いやが上にも高まる。むしろ巧や花の没入が、水挽町全体に敷衍されているという感覚が強い。その深い没入を破るものとしてのグランピング場計画 → 派遣される高橋、黛 → 排除される高橋という構図は、よりわかりやすくもなっている。
難しいのは、上記のようにインラインで示した前稿の解釈が、まったく成り立たなくなることだ。なぜなら、「悪は~」で言語(主に会話)で示されていたことが、「GIFT」では声ごと失われ、「悪は~」で非言語で暗示されていたことが、「GIFT」では字幕により明示されてしまうからだ。
本稿でも、あらかじめ「作品間の異同から他方へと意味づけを敷衍すること」を避ける旨述べたのは、このような理由がある。
では、「GIFT」と「悪は~」は別の作品であり、当然、解釈も変わると決めつけてもよいのか?
ーー実際に撮影しているとき、音がある『悪は存在しない』と音のない『GIFT』を両パターンつくる、ということはどこまで意識されていたんですか?
濱口 出来上がりのことはわからないけど、普段通りにつくるぞ、ということは思ってました。それが結果的に何かになるだろう、と。(中略)現場で聞こえている俳優たちの声は本当に素晴らしいものである。その痕跡はきっと声を発している体にも残るし、画面に映るはず。そういう前提で撮っていたので、最初から最後まで普通の物語として撮っていたように思います。そしてその結果が『悪は存在しない』になり、『GIFT』になっていったのかな。
最後に「~かな」と言っているように、二つの作品の分化の経緯について、濱口自身もやや自信がないようにもとれる。しかし、映画を「普段通りにつく」れば、俳優たちの声はすばらしいものになり、「その痕跡はきっと声を発している体に残るし、画面に映るはず」という発言には確信がある。
極論すれば、「GIFT」制作において濱口は、声の痕跡を俳優の体に残すために、観客につまびらかにならないテキストをつむぎ、本読みを行い、カメラの前に俳優を立たせた。これが成功したことにより、サウンド版「悪は存在しない」が同時に成立する。なぜなら「悪は~」のテキストは俳優の体に「痕跡」を残すくらいだから、観客にエフェクトを及ぼすに足るだろうからだ。
このように成立した「二卵双生児」の「GIFT」と「悪は存在しない」を両方鑑賞した者は、しかし、制作者の意図をよそに、俳優の体の痕跡とテキストの往還を勝手に始めてしまう。これはおそらく、どちらを先に観たとしても起こる。であるなら、もしかしたら「GIFT」か「悪は存在しない」のどちらかのみを鑑賞することが正しい作品受容なのではないか。
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当然と言えばそれまでだが、「悪は存在しない」の劇伴は石橋が担当している。まず濱口から脚本が渡されていたが、撮影がすべて終わったのちに編集したものを渡された段階で、音楽制作に入っている。完成した楽曲は濱口に納品された。
ーー音楽ののせ方については、濱口さんにお任せされたんでしょうか?
石橋 はい。濱口さんがどこにどの音楽をつけるか決めてくださっています。実際にできあがったものを見ていていちばん驚いたし笑ったのは、(黛役の)渋谷さんが水を汲んで一生懸命運ぶところ。あそこでメインテーマが流れたのには、ああ濱口さんってやっぱり悪い人だなあと安心しました。ああいった音楽のつけ方は濱口さんならでは、なような気がします。
件の場面について、前稿では以下のように述べた。
おそらく濱口が強調したかったのは、うどん店の後に行った水くみのシーンで、この三人が時間を忘れるほどの没我に至っていたということだ。巧の抱える健忘に、高橋と黛が巻き込まれたとも言えるかもしれない。結果、花の失踪という事態が出来してしまう(音楽の石橋英子が三人の水くみの場面にメインテーマを用いていることについて「ああ濱口さんってやっぱり悪い人だなと安心しました」とパンフレットのインタビューで述べているのは、まさに慧眼である)。
おそらく石橋は、黛が運ぼうとするポリタンクをマッチョぶった高橋が奪い、彼女はひしゃくだけを携えて車に戻る場面にメインテーマを付した濱口に対して、「悪い人だなあと安心し」たのだろう。その意味では、前稿での引用は正しくないと言えるかもしれない。
ただ、メインテーマ(サントラの「Evil Does Not Exist」)をこの場面に持ってきたのは、やはり没入・没我・健忘の意図的な演出と思いたい。少なくとも、濱口が意図をもって、「悪は〜」のこのシーンにメインテーマを付したことは石橋の発言からも明らかだ。
そして両作品のこのシーンに注目すれば、もともとセリフ自体が存在しない。俳優が体に刻むべき言葉がここには存在しない。ではなぜ黙って水くみをし、ポリタンクを運ぶときにも、メインテーマを付されるにふさわしい痕跡が俳優に刻まれているのか?
ーー最初は完成作品では声が使われない予定だったそうですが、「本読み」はいつも通り行われたんですよね。
渋谷 はい、本読みの時間は前回(引用者注・「ハッピーアワー」)同様、しっかりとってありました。実際のところ、声が使われるかどうかは演じるうえでそんなに関係なかったように思います。
上記は黛役・渋谷采郁のインタビューの抜粋だが、演じる俳優にとっても、自身の「声が使われるか」は問題ではなかったという。本読みをはじめとする、濱口の「普段通り」の映画制作が、俳優の体に言葉を刻み、その痕跡を観客に開示することがベースであることがよくわかる。
とするならば、濱口にとっては「サイレント映画」こそがもっとも望ましい表現形式なのだろうか。「トーキー」は現代における興行上の理由で、しかたなく撮っているのか?
いやそうではあるまい。「悪は存在しない」は「GIFT」と同時に成立している。俳優の体に刻み込むためであったテキストが、その痕跡とともにつまびらかになる。「悪は〜」は濱口の「普段通り」の映画として、当たり前に生まれ落ちている。
上述のように、「GIFT」はそれ単体で成立する「サイレント映画」ではないが、やはり濱口は「サイレント映画」を作ろうとしたのではないか。それも、「普段通り」の映画(トーキー)の手法で。なぜなら、濱口の映画作りのメソッドの中に「サイレント映画」のメソッドが完全に内包されているから。
視点を転じて、鑑賞者はやはり、「GIFT」と「悪は~」はどちらかを観るとき、他方を完全に忘れる必要がある。しかし、「悪は~」を観た自分(あるいは「GIFT」を観た自分)を否定することはできない。
であるならば、鑑賞者もまた両作品を「二卵性双生児」として、並行して鑑賞する努力が強いられる。少なくとも、その自覚が必要だ。その道しるべが俳優の体に刻まれたテキストの痕跡であり、石橋が都度付与し、濱口が「一回きり」与えた音なのだろう。