祖父について語るとき僕が語ること(後編)
(中編からのつづき)
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横道河子(おうどうかし)という町で武装解除となった祖父ら元関東軍兵士は、側溝に転がる友軍の死体をうつろな目で見ながら、「もはや烏合の衆みたい」に集結地・海林(ハイリン)に向かう。ソ連軍の捕虜に身を落としたわけだ。
その間、戦勝国・ソ連の兵士は傍若無人にふるまい、日本兵にピストルを突きつけて腕時計や万年筆を強奪した。
この「どさくさ紛れの大泥棒」の場面は、間宮中尉が1938(昭和18)年にハルハ河の左岸で蒙古兵より受けたそれを思い出させる。
ソ連は1945(昭和20)年2月、イギリス、アメリカとのヤルタ会談において対日参戦の密約を結び、これに基づいて8月8日宣戦布告、8月9日、満ソ国境を超えて侵攻した。
8月8日の宣戦布告後、ソ連はポツダム宣言に署名している。ポツダム宣言とは、1945年7月26日に米英中の3国首脳により発表された、対日本の降伏勧告宣言である。戦争の終結の条件と戦後日本の処理方針が示されたもので、日本の軍国主義の排除、連合国による領土占領などを掲げる。通告を受けた日本はこれを拒否したため、広島・長崎の原爆投下(8月6日、9日)、そしてソ連対日参戦を招く状況に追い込まれ、8月14日に宣言を受諾。15日終戦に至った。
このポツダム宣言では、「日本国軍隊の完全武装解除と兵士の復員」が掲げられており、ソ連も署名した手前、「兵士の復員」は成し遂げられねばならないはずである。しかしその約束が履行されることはなかった。
おそらく祖父は当時、上記のような事情を詳細には知らなかった。しかし、末端の兵士の粗野なふるまいや、圧倒的な貧しさに、何かしらの予感を感じてもいたのだろう。1945年10月下旬、あらかじめ1000名単位の大隊に編成されていた祖父らは、牡丹江駅から貨車に乗せられる。
祖父によると、大隊が編成された竝虎(らこ)ではソ連の兵から「トウキョウ・ダモイ(帰還)」という言葉がしきりに聞かれ、先発の部隊が日本に帰ったといううわさも聞こえてくるなど期待を持たされたが、かつがれてしまったらしい。
少し脱線するが、『1Q84』で満州鉄道とシベリア鉄道に触れる描写がある。
おそらく祖父は牡丹江から満州鉄道の東清鉄道(東支鉄道)を東進し、綏芬河(すいふんが)でシベリア鉄道に接続。満ソ国境を越え、南下してウラジオストックへ向かうと期待した。
しかし、一度南下した列車はウスリークスで北上に転じてハバロフスクまで進み(この間におそらく朝を迎えた)、そこからシベリア南部を西へ横断するルートを取ったのだろう(さらに余談だが、上述の『1Q84』の下関〜パリ間は、下関〜朝鮮半島の釜山まで航路、釜山→京城(ソウル)→平壌(ピョンヤン)→奉天→新京→ハルピンと満州鉄道で進み、東清鉄道に接続。西進して満ソの西の国境手前の満州里でシベリア鉄道に接続するルートだろう。これだと、祖父が運ばれたルートとはかぶらない)。
祖父はハバロフスクから西へ280キロほどのイズベストコーワヤという駅で降ろされ、そこから徒歩でテルマ地区に向かった。テルマはイズベストコーワヤから北へ伸びるウルガル線という鉄道支線の経由地で、支線はその先のウルガルでバム鉄道(シベリア第二鉄道)に接続する。
この支線は独ソ戦で線路を撤去して西武戦線に転用したため荒れるがままに放置されていたが、祖父らはその再構築に携わるためこの地に連れられてきたようだ。
ひと口にシベリア抑留といっても、長大なシベリア鉄道で運ばれた捕虜たちは各地に点在する収容所へ送られており、たとえば画家の香月泰男はバイカル湖をはるかに越えて西進した先にあるアチンスクという駅から支線を南下し、セーヤ収容所で火力発電のための森林伐採に従事。のちに炭鉱町チェルノゴルスクの収容所へ送られている。
『ねじまき鳥〜』の間宮中尉がハイラルの激戦ののちチタの病院で手厚い治療を受け、通訳要員として長期の思想教育を受けてから配属されたのも、炭鉱に設置された収容所であった。
ところで、なぜソ連は国際的な取り決めを破ってまで日本兵に労役を課したのか。実際、1941(昭和16)年に締結された日ソ中立条約は同年末の日米開戦後も破棄されることなく、中立関係は維持されていた。1945年2月のヤルタ会談で対日参戦を決めたソ連は、同年4月の条約有効期限以後の不延長を通告するものの、日本は太平洋戦争の和平工作のあっせんをソビエトに求めるなどむなしい期待をかけてもいた。
間宮中尉の言を借りてみよう。
収容所で祖父も成人男性労働力として、当然、過酷な労働を強いられた。当地にはソ連の流刑者用の収容所(ラーゲリ)しかなかったので、まずは自身が住むための収容所を作るという皮肉な作業から始まったという。
自分たちで建てたラーゲリは掘っ建て小屋式の「日本の土蔵の大きくて粗末な奴」で、丸太小屋の外壁を粘土で分厚く塗り固め、床は丸太の一面を平らに削ったものを敷いた。雨が少ないので屋根は簡単に仕上げ、窓は最小限にして零下50度以下にもなる寒気を少しでも防ぐ。内部は二段式の簡素な寝台(アウシュビッツなどでも見られた、かいこ棚のようなものだろう)があり、中央に薪ストーブがある。照明はのちにランプが支給されたが、最初はシラカバの皮を燃やしたので、みな鼻のあたりが真っ黒になったという。
甘いものといえば、収容所生活が2年目に入ったころ、配給が少し改善され、月に一度くらい角砂糖が10個ほど配られるようになったそうだ。
甘味への憧憬は、間宮中尉が「皮剝ぎ」の起こる前々日に地平線から昇る太陽を見つめながら、「死ぬほど柏餅を食べたかった」ことを思い出させる(そして、野井戸に落とされ、「暗闇を落下していくあいだ」に、故郷と家族、「一度だけ抱いた女性」のこととともに再び柏餅を思い出す)。
なお、満たされない食欲に比して、祖父には性的な欲望は存在しなかったという。疲労困ぱいした体では、性欲など優先順位はずっと下に追いやられていたのだ。
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武装解除の折の、ソ連の兵士の粗野なふるまいについては先に述べた。収容所においては、ソ連側で一番気を遣ったのは捕虜を逃がさないことであったから、用員の点呼は重要だった。しかし、「頭の悪い将校が当番のときは」なかなか人数が合わず数え直すといったことが茶飯事だったという。
『ねじまき鳥〜』にも、間宮中尉が教育程度の低い下士官にからまれる場面が出てくる。
この許可証を読み上げた「いかにも教育のありそうな」囚人が、「皮剝ぎボリス」であった。間宮中尉は将校であったボリスがなんらかの事情で失脚し、囚人となってシベリア送りになったのだと推測する。
先にエヘルカン収容所には最初、ソ連の流刑者用の収容所しかなく、祖父らは自ら日本人用の収容所の建設をさせられた旨を述べた。その自分らが住む収容所を、自分たちが逃げられないように周りに有刺鉄線を張った、という記述も出てくる。
つまり、収容所では日本兵捕虜を集めた居住区と、それ以外の囚人や捕虜を集めた居住区とは鉄条網で隔てられており、通常は行き来ができない。しかし、通訳連絡員の資格を持つ間宮中尉は地区間の往来が基本的に自由で日本人地区を出て収容所の本部を訪ねることもあり、その帰りにボリスと接触したのだ。
そうすると祖父は日本人の居住区を出たことはなく、ボリスのような教育のあるロシア人との接触はなかったのだろう。そのためか自伝ではロシア人の要領の悪さ、素行の悪さ(日本人捕虜にソ連守備隊の倉庫から食糧を盗ませる)が繰り返されるが、なかには好感を持てる人物も出てくる。
そんな彼らも、激烈なノルマに縛られているから、役目柄、きつい言動もあったのだろう。収容所ではとにかくノルマ、ノルマで、捕虜ばかりでなく、収容所長や作業監督も上からの割り当てにきゅうきゅうとしていたという。
『ねじまき鳥〜』では、日本人捕虜の組織維持は、ボリスが収容所内の実権を握ったのち「自治」を与えてから掌握していった「盤石の支配体制」のベースとなっていた。のちに「ロシア人がやっていた労務管理を日本人仲間がかわりに引き受け」、さらなる搾取へもつながっていく。ここにも勤勉な日本人(自己責任論も強い?)に任せたほうが、ロシア人に任せるより効率的という打算があったのかもしれない。
収容所に関連しているロシア人は、上記の作業監督のように何らかの罪でシベリアに送られた人が多い、とも祖父は記しており、このあたりも『ねじまき鳥〜』の記述と一致する。そのためか、彼らのスターリン評は極めて悪く、「スターリン、ホイニャー(「хуйню」か。「でたらめ」「クソ」くらいの意)」と悪口を言うのを祖父は再三聞いたという。
祖父もスターリンに対しては、思うところがかなりあったようだ。
このような姿勢で日本の若者を教育して帰国させれば、彼らが社会の中堅、指導者となった日本はまったく違った姿になっていたかもしれない。しかし、事実は正反対で、「理想の社会どころか、ガリガリ亡者の手前勝手の国、力で押さえ込み絞り取る国、恐ろしい国」などのイメージを祖父の頭に強く植えつける結果となってしまった。
さて、祖父の周辺にも間宮中尉のような日本人の通訳が存在した。野口さんという方で、かつての幹部候補生を集めてロシア語の勉強会を開いてくれたという。「小柄だがロシア語に堪能で、堂々と相手と渡り合う、頼もしい通訳さんだった」らしい。
この野口さんのおかげで祖父の復員が成ったのも、私としては間宮中尉が祖父を助けてくれたような気がして、不思議な因縁のように感じる。
軍医は祖父の健康状態がよい(「ハラショー」)と判断したが、野口さんは「この兵士は体が弱い」と主張したのだ。しばらくして軍医が根負けし、「しようがない」というようなジェスチャーをしたことを祖父は覚えている。
7月初めに祖父はまた呼び出しを受け、身の周りの整理をして門の前に来るように言われた。早速行ってみると、集められた十数人はほとんど弱兵のようだった。役に立たない者は早く日本に帰すということだと、祖父は判断した。
そのまま貨車に乗せられ、数日後にナホトカに到着。あっけないほどの順調さだが、疑心暗鬼は晴れない。日本の引揚船「永禄丸」に乗船して初めて、日本に帰れることを確信できたという。
1947(昭和22)年7月24日、祖父を乗せた「永禄丸」は東舞鶴港に到着する。
戦中のもんぺ姿で働く女性しか頭になかった祖父にとって、その変わりようにまず驚かされ、安堵もしたという。
間宮中尉も、やはりナホトカから引揚船で復員している。その前段で、ボリスの口から復員の背景に捕虜を強制労働に用いることに国際的な批判があることも語られた。それが1948年のことで、ボリスとの奇妙な対決を挟み、間宮中尉は翌1949年の始めにようやく帰国している。間宮中尉が満州に渡ったのは1937年(昭和12)年のことなので、12年ぶりに故郷の地を踏んだことになる。
本田さんの「予言」は、さまざまな奇妙で過酷な体験を間宮中尉に課したのち、最終的に彼を「がらんどう」へと導いてしまう。
祖父も無料の乗車券で列車に乗り、故郷の大迫へ向かうが「知った人に見られたくないので、町の手前でわざとバスを降り、裏道を通って隠れるようにして家までたどり着いた」そうだ。
おめおめと生きて帰ってきたことを恥じていたのだろう。家族との対面などについては記述がないが、外川目国民学校の教員の身分は応召中も保持されており、間もなくして戦後民主教育の現場に放り出されることになるのは、前述したとおりだ。
間宮中尉も復員後は社会科の教師となり、広島の県立高校で地理と歴史を教えた。しかし「本当の意味で生きていた」わけではなかった。
祖父には間宮中尉ほどの深い虚無感はなかった。そして、お国のため公のための滅私奉公に明け暮れ、自分自身を大切にしてなかったことへの反省もあった。幸いにもソ連軍との激闘とシベリアでの最低な生活も乗り越えた。これからの人生は、いわばもうけものの人生である。そんな開き直りが祖父にはあった。
また、復員して間もなく、祖父に養子縁組の話が立て続けに舞い込んできたという。戦争で跡取り息子を失った家庭からの引き合いが多かったというが、間宮中尉にしても事情は同じで、養子縁組や見合いの話もあったのではなかったろうか(それだけ彼は「がらんどう」だったのだろう。間宮中尉はその後も天涯孤独を貫き、高校を定年退職後は「半ば趣味で」農作をしていた)。
養子縁組の話は、先方が資産をちらつかせるので祖父の反感を買い、すべてご破産になった。代わりに(?)身を固めることを決意し、かつての同僚教師の世話で見合い結婚する。その相手が私の祖母だ。1948(昭和23)年1月6日のことである。
同年末、盛岡市立仁王(におう)小学校教諭に発令されるが、実際の勤務場所は岩手県教育委員会事務局の岩手紫波(しわ)出張所となるとのことだった。紫波町は盛岡市と大迫(現花巻市)の中間に位置する。教員身分のまま行政業務に携わる併任職員となったことは、何らかの転機を待っていた祖父にはありがたい話だった。これがこの後30年にわたる行政分野への転身のきっかけとなった。
行政に転じてからの祖父の軌跡は自伝の後半をほぼ埋めているが、正直なところやや精彩を欠き、県庁職員としての業務・業績の記録と化していく。『羊をめぐる冒険』の『十二滝町の歴史』が「薄幸のアイヌ青年の物語」が終わったとたん、退屈になっていったのと同じように。天吾の父親が天吾に語った自身の身の上話が、NHKの集金人となってからは急激に色彩とリアリティーを失ったように。
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本稿では、私の祖父の「個人的な記憶」と、村上作品の登場人物のフィクショナルなそれとを重ねてみることで、祖父をフィクションの登場人物として扱えるのではないかとの試みから始まった。
一方、私自身の記憶は私自身が歩んできた「個人的な記憶」と歴史、つまり集合的な記憶からできており、それが私自身の「正当な人格」の維持を支えている。そして祖父の記憶は祖父の「個人的な記憶」であると同時に、私にとっての「集合的な記憶」の一部を形成している。もし祖父の記憶が物語世界に十分に接続できるのなら、物語世界が私の集合的な記憶の一部をまた形成しうると考えてもよいのかもしれない。
私自身の記憶もまた、自伝というかたちをとるとは思えないが、息子たちへ否応なく受け継がれていくのだろう。それは天吾の父と天吾との間で行われた「因縁」の継承のようなものなのかもしれない。私自身も、祖父の「個人的な記憶」を自伝という形式のままではダイレクトに受け取ることはできなかった。フィクションという器がそれを可能にしてくれた。村上作品に改めて感謝の意を表したい。