祖父について語るとき僕が語ること(中編)
(前編からのつづき)
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日米開戦の報を聞きながら、1942(昭和17)年を迎える。
祖父が小学校教員と兼任して助教諭を務めた青年学校とは、1935年(昭和10)に設立された勤労青年のための定時制の学校だ。「皇国青年ヲ練成スル」ことを旨とし、特に男子は軍事的な予備教育を通して優秀な兵を獲得するところにねらいがあったという。
あらかじめ先取りしておきたいのは、祖父が教師として無批判に軍国主義を称揚していたことを、のちに猛省していたことだ。1947(昭和22)年、過酷なシベリア抑留から復員し、故郷に帰った29歳の祖父は、占領下の日本が大改革を遂げていたことを知らないまま、「戦前の意識、感覚のまま」社会に放り出され、再び小学校の先生となる。
察するに余りある当惑である。しかも、祖父自身は戦中、「大東亜共栄圏建設を信じて陸海軍や満蒙に教え子を送」ってきた者であった。そのあたりの経緯をもう少し見ていこう。
1942年4月、自身の三番目の勤務校である稗貫(ひえぬき)郡外川目(そとかわめ)国民学校(現花巻市)に赴任してからも、「撃ちてし止まん」「滅私奉公」「欲しがりません勝つまでは」などの標語のもと、さまざまな活動を展開したという。
高等科(現在の中学校1〜2年に相当)を担当する祖父は、手旗信号やモールス信号も教えた。体育では敏捷性の向上を目指し、男子生徒のほとんどが空中転回(!)ができるようになった。剣道の号令が「面を打て」から「面を切れ」に変わった。戦時下の国民学校は皇国民の練磨育成(錬成)に明け暮れていたのだ。
自伝の中でもっとも痛切な反省が描かれている箇所であるが、村上作品との大事な接点がここに出てくる。「満州開拓団員への志願」だ。これは『1Q84』の天吾の父を想起させる。
あるいは天吾の父も、祖父のような教師から開拓団入りを勧められたのかもしれない(ちなみに外川目村は典型的な山村で、農村ではなかった)。
さて、生徒に向けて放っていた「おれも行くから」は本心から出ていたようで、戦争が激しくなってくるにつれ、祖父自身も「いても立ってもいられない気持ちにさせられた」という。
祖父をはやる気持ちに駆り立てた戦局を簡単に記しておく。
1942(昭和17)年 東京初空襲。ミッドウエー海戦。ガダルカナル苦戦。
1943(昭和18)年 スターリングラードでドイツ軍降伏。ガダルカナル島撤退。アッツ島玉砕
1944(昭和19)年 トラック島大空襲。サイパン島陥落
熱い思いに冷や水を浴びせられて消沈する間もなく、ついに祖父の元に召集令状が届く。1944(昭和19)年、9月19日。終戦まで1年を残すのみというタイミングだ。このとき祖父26歳。秋田の東部第五七部隊への入隊を命じられる。
*
9月25日、入隊手続き完了(歩兵二等兵)。外地要員として近く送り出されるため、兵舎に入らず三週間ほどは旅館住まいだったという。
外地というと、このころは南方か満州の二択だったようだ。案の定、満州への派兵が決まる。秋田から軍用列車で広島へ、宇品港から輸送船で釜山へ、さらに朝鮮半島を縦断して満州に入り、ハルピンに到着したのが10月17日だった。そこで祖父らを迎えたのが満州第二〇九部隊である(第一七八連隊が正式名称だが、防諜上、その呼称は避けられたという)。
この連隊が所属する師団は第一〇七師団であった。師団は第九〇連隊(既設)、第一七七連隊(新設)、祖父の第一七八連隊(新設)の三個連隊で構成される。
祖父の所属を階層状に示すと以下のようになる。
第一〇七師団 → 第一七八連隊(第二〇九部隊) → 第二大隊 → 第四中隊 → 第四班 → 内務班
実際、敗戦から2週間たっても、ハルピン西方の大興安嶺(だいこうあんれい)でソ連軍と戦い続けたのが第一〇七師団あり、第一七八連隊(第二〇九部隊)だったそうだ(祖父は後述のように別行動をとる)。
中隊は戦闘の単位だが、平時においては「兵士の家庭」であったらしい。中隊長(「おやじ」)を中心に内務班の生活を通じて、新兵を一人前の軍人に仕上げていく。起床ラッパから消灯ラッパまで寸暇もない。また、祖父は2回、上官からビンタをくらったという(「目から火花が出るとは聞いていたがやはり本当だった」)。とはいえ、しつけが厳しいことはあってもむちゃくちゃなことはなかった(らしい)。しかし、10月のハルピンは冬の季節で、北満の冬は零下三十度になることも珍しくなく、これには大変苦しんだようだ。
ここで『ねじまき鳥クロニクル』から、綿谷ノボルの伯父と満州との関わりの場面を引用しよう。
綿谷ノボルの伯父はのちに政治家となり、綿谷ノボルがその地盤を継ぐことになるわけだが、若いころは陸軍大学出のロジスティックス(兵站)を専門とするテクノクラートであった。彼は参謀本部に設置された対ソ戦争仮想研究チームの兵站部門で寒冷地特殊被服の研究に携わる。
祖父の師団は「もう少し穏やかな北中国」に駐屯していたため、綿谷ノボルの伯父が検討していたほどの防寒着は必要なかったかもしれない。
それにしても「日本国内における飼育綿羊」というワードは、『羊をめぐる冒険』の「先生」や羊博士、十二滝町を想起させる。
綿谷ノボルの伯父は、奉天で石原莞爾と差し向かいで一夜飲み明かしたことがあり、兵站の強化、すなわち新生満州国の急激な工業化、自給自足経済の確立、農業移民の重要性がその場で説かれたという(またしても「農業移民」の話が出てきた)。
また、綿谷ノボルの伯父は防寒被服の問題を近代兵站のモデルケースとしてとらえ、徹底的な数字的分析を行なった末、報告書において「冬季におけるソビエト軍との戦闘は現段階にては遂行不可能」ときっぱり言い切った。
1939(昭和14)年のノモンハン事件の手痛い敗退後、秋の始めに早期終結したのは、この報告書が「一役買っていた」という。そして、軍部の目はしだいに南方に向けられるようになる――。その後、ソビエト仮想戦研究班の活動は尻すぼみになっていったというが、戦争末期にそのソビエト軍との戦闘(夏だけど)に間宮中尉、そして私の祖父がかかわるというのも、何らかの因縁を感じずにはいられない。
さて、明けて1945(昭和20)年、祖父は幹部候補生の試験を受け、合格する(上等兵)。候補生だけを集めた三か月余の集合教育ののち、第二次試験を「トップの成績」で通過し、「陸軍兵科甲種幹部候補生」(甲幹)を命ぜられた(伍長)。
中隊に戻ると、いきなり下士官室を与えられて当惑したようだが、特に何もすることもなく、食事も運んでもらえるし、他の部隊や満州国軍の兵隊から敬礼を受けたりと、まんざらでもなかったようだ。
6月末、予備士官学校へ派遣となる。思い返せば、これが運命の分かれ道だった。学校は「牡丹江(ぼたんこう)市から南六〇キロ程のところにある」石頭にあった。「石頭」は「いしあたま」ではなく「せきとう」である。関東軍の戦車隊が南方方面に転用された跡地に学校はあった。
祖父は入校後間もなく、ほかの新入生とともに軍曹の階級に進んだ。「階級が上がっても教育中は下級者がいないから初年兵とほとんど変わりがない」と謙遜(?)するが、スピード出世には間違いないだろう(大学出の間宮中尉は、最初から少尉として新京の関東軍参謀本部に着任しているので比べるべくもないが)。
満州は冬の寒さのみならず、夏の暑さもまた格別だったそうだ。汗と泥にまみれてはい回る陣地攻撃、対戦車肉薄攻撃(後述)などの猛訓練が連日続く。こうして目まぐるしい1日を過ごしているうちに運命の日がやってきた。ソ連軍の侵攻である。
間宮中尉が戦ったのは満州国北東部のハイラルなので、祖父のいた南東部の石頭とはだいぶ離れているが、間違いなく同じ戦闘である。
祖父がソ連侵攻の報を受けたのは8月9日の未明で、翌10日には遺書をしたため、出動準備に入った。なお、祖父は独身のため兄あてに遺書を書いたそうだ。
当時、候補生は6つの中隊で構成される教育隊に編入されていた。祖父は第二教育中隊第一区隊に属していた(南雅也『われは銃火にまだ死なず』(光人社NF文庫)によると、祖父が名前を上げている区隊長は第一教育中隊第二区隊のようだが、そのままとする)。
いずれにしても教育隊は本来、戦闘部隊ではなく、侵攻にあたり候補生をそれぞれの原隊に帰すか、部隊を編成して迎撃に当たるかの選択があったが、後者が採択され、出陣部隊が編成される。
祖父は荒木連隊第一大隊(猪俣大隊。920名。祖父の著書では750名)の第二中隊に配された。
荒木連隊第一大隊
―― 本部 猪俣繁策大尉
―― 第一中隊
―― 第二中隊 本部 太田賢助中尉
若槻秀雄見習士官
指揮班長 若槻秀雄見習士官
(後任)阿部恭候補生
第一小隊長 向井彰候補生
第二小隊長 中村秀喜候補生
(後任) 豊田勲候補生
第三小隊長 山本雄吉候補生
―― 第三中隊
―― 配属機関銃中隊
―― 配属歩兵砲中隊
太字が祖父である。祖父が第二中隊の指揮班長の後任となった経緯は後述する。
まずは、順を追って状況を見ていこう。
祖父の属していた荒木連隊第一大隊(猪俣大隊)は上記の②の命を受け、一路磨刀石を目指す(もし祖父が①の「荒木連隊の主力」に属していたら、と想像せざるをえない)。
しかし、石頭駅から貨車に乗り磨刀石駅に到着しようとする午後3時ごろ、部隊は敵機の爆撃と機銃掃討を受ける。南氏の著書よりその際の情景描写を引用する。
結局、第一中隊長は戦死。ほかにも候補生十数名が戦死および負傷した。祖父も「初陣にはきつい洗礼だった」と述懐する。
同日夜は、磨刀石の満人部落周辺に野営し、翌12日、敵機甲部隊を迎え撃つ陣地構築を開始した。
敵戦車に対し肉薄攻撃(肉攻)を試みる者は、おそまつな急造爆雷(黄色薬を梱包したもの)を背負い、敵戦車に飛び込む。そのために身をひそめる穴をタコツボといい、肉攻手は自らの手で穴を掘ってここに隠れ、タイミングを見計らって敵戦車にとりついたのち手榴弾で自らを吹き飛ばし、黄色薬を誘爆させる。「人間魚雷や神風特攻隊と同じ発想のもの」である。
間宮中尉が「死ぬるつもり」で行った肉攻を、祖父の部隊も実際に行う準備を始める。
そして、祖父にもターニング・ポイントが訪れる。12日夜、祖父の属する第二中隊の指揮班長・若槻秀雄見習士官を長として、第二中隊第二小隊30名からなる「挺身切込隊」を編成して出撃させることになった。しかし、夜襲をかけた挺身隊は、敵に若干の損害を与えたようだが、決定的なものではなかった。若槻隊長ほか多数の候補生が帰ってこなかった。
明けて13日、若槻見習士官が戦死したのち、祖父は太田中隊長から「貴様が指揮班の指揮を執れ」と命ぜられる。祖父はさらっと書いているが、敵戦車の上に乗っかり奮闘した末に戦死した者の後釜と考えると、あまりぞっとしない。
この日の正午過ぎ、敵戦車部隊が進撃を開始。ついに鉄の塊に対する肉弾の戦いが始まる。この戦いの描写を、奇跡的に生還した南氏が著書で詳述しているが、指揮班の祖父はそれを「後方の小高い陣地から見たものと同じ光景」だとしている。
夜になると、陣地には静寂が訪れた。死を免れた肉攻兵たちは掖河方面へ脱出を始め、祖父もそれにつき従う。
14日の朝、掖河にたどりつく。掖河は牡丹江の北1キロに位置し、荒木連隊の主力が陣地構築している場所だ。だがここで牡丹江への撤退命令が出て、祖父は市内の小高い塹壕に陣取る。ここで一戦を構えよう、「ここがホントの死に場所だ。矢でも鉄砲でも持ってこい」と、いわば開き直りの心境になったという。
だが、15日、意外なことにまたしても撤退命令が伝えられ、横道河子(おうどうかし)という町まで後退する。一夜明けて16日の夕刻、思いもかけず「戦争は終わった」と伝えられた。あまりにもあっけない幕切れであった。
ここで自伝は章を改めるが、最後に祖父は「磨刀石戦闘雑記」として当時の心境を追記している。
まず、「磨刀石の戦闘記録」について。
この戦闘は敗戦直前のわずか半日の戦いであった。それは関東軍全戦線の一局地戦にすぎないし、まして太平洋戦争全体から見ればけし粒くらいなものだろう。したがって客観的に記録されている資料はなく、当事者の体験記(前掲の南氏の著書など)ぐらいしか見られない。このことを『シベリア抑留』(講談社文庫)の著者、御田重宝氏は次のように述べているとして、祖父は著書に引用している。そのまま引いてみる。
満州開拓団員だった『1Q84』の天吾の父は、親しくなった役人からソ連侵攻の確度の高い情報を得て、早々に満州を脱出した。一方、同じ状況で間宮中尉は自ら死を求めて「肉攻」を試みる。祖父は「肉攻」を目の当たりにしながら、後方にいたため生き残る。
祖父は「「死」について」という項で、このときのことを総括している。
しかし祖父は「結論は間違いなくタコツボから飛び出して、南氏が描いた肉攻手のように、木っ端みじんになったであろう」と断言している。
一方、死線を逃れ、後述するシベリアの捕虜生活も経験した自分は、復員して日常生活に戻っても「あの時あのころのことを考えれば、どんなことにぶつかっても恐るるにたらずだ」などと考えていたという。しかし、戦場のような異常な場面での「死」と、本来の意味での「死」は違う。
たぶん、天吾の父も間宮中尉も、復員した祖父と同様、本当の意味で死の意味を考えることはできなかったのではないだろうか。戦争という「有事」は、その落差でもって日常という「平時」において生や死に向き合うことの難しさを浮き彫りにするのである。