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雑記『百年の孤独』③(p63〜95)ーー記憶の外部化、でっちあげた架空の現実

「誰かがここへ来るよ(p67)」

アウレリャノ(のちのアウレリャノ・ブエンディア大佐)は、「思春期に達して声のやさしさは消え、口数の少ない孤独を愛する人間に変わった」が、「生まれたときの目つきの鋭さがふたたびよみがえってい(p66)」る。幼少期から予知能力を発揮していた彼が、今回、予知したのは「外」からの来訪者の存在であった。

その「外」から、前章末でウルスラが連れてきた人々が「この土地の豊かさを遠方まで伝えたので、かつての貧相な村はたちまち、商店や職人の仕事場が軒をつらねるにぎやかな町に変わっ(p64)」ている。
このマコンドの村から町への変貌によって、もっとも変わったのはホセ・アルカディオ・ブエンディアであった。「茫漠(ぼうばく)とした空想の世界よりもはるかに魅惑に富んでいると思われる身近な現実に惹(ひ)かれた彼は、錬金術の工房への関心をいっさい失」い、「当初の活動的な人間に戻った(p64)」。

この人物には、二重人格というか、自らの興味に没頭して周りを顧みないモードと、周りのために滅私奉公するモードのどちらかに極端に走る傾向がある。しかし、よく読んでいくと、例えば錬金術にしても、私利私欲に走っているのではなく、家計を、そしてマコンドの経済をよくしたいというかつての「若き族長」としての使命感がつねに彼の根本にあるようだ。本章末に、やはり「外」からやってきた町長と衝突するのもその自負が背景にあるわけだが、とはいえ「あんた、この間まで没頭モードだったやん」というつっこみのひとつも入れたくはなる。

かようにして「外」に対して門戸が開かれたマコンドであったが、長男ホセ・アルカディオの出奔にかかわった(とウルスラが考える)ジプシーたちは全面的に出禁になる。その例外が「昔なじみのメルキアデスの一族」で、彼らが「古くから伝わる深い知恵と驚くべき新発明の品々をとおして町の発展に大きく寄与した」というのがその理由だが、「メルキアデスの一族は人知の限界をはるかに超えたために、この地上から抹殺されたという(p65)」。この記述からも、マコンドにもたらされた「文明の利器」とはまったく方向性も深度も異なる領域へ、メルキアデスが踏み込んでいたことがわかる。そして、アウレリャノが予言した冒頭の来訪者も、「文明の利器」の世界とはまったく別の「外」から送り込まれる。

来訪者はのちにレベーカと名付けられる少女だった。彼女は皮革商人に連れられてマナウレからやってきたのだが、「ホセ・アルカディオ・ブエンディアの家まで送り届けるよう頼まれた」商人たちも、「依頼したのが何者かということを説明できなかった(p68)」。依頼人は手紙を添えていたのだが、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラにしても、「その子はウルスラにはまたいとこにあたり、したがって、さらに血は薄くなるがホセ・アルカディオ・ブエンディアにとっても親戚(しんせき)ということになる、なぜならばそれは、忘れがたい友人ニカノル・ウリョアとその尊敬すべき妻レベーカ・モンティエルの娘であるからだ(p68)」という内容に、まったくぴんとこない。「そういう名前の親戚がいた記憶はなかった(p69)」のだ。

とすると、手紙の内容がまったくのでたらめということもありうる。もしかしたら、ブエンディア家、あるいはマコンドに何かしらの遺恨を持つ何者かから送られた刺客がレベーカなのかもしれない。というのも、このレベーカがやがてマコンドに蔓延する「過去を喪失した一種の痴呆(ちほう)状態に(p73)」人々を陥らせる、伝染性の不眠症のキャリアだったからだ。
コロナ禍を経験した我々読者は、この病の跋扈の描写をすんなり受け入れられるだろう。まさに「外」からやってきた災いである。とくに、「病気が口からしか伝染しない(p77)」、つまり飲食物を経由してのみ罹患するとしていることからも、ガルシア=マルケスが伝染症の何たるかをよく理解していたことがわかる。

さて感染経路の遮断により、病は当面、マコンド内に押し込められ、町での飲食を禁止することで「外」の人々の出入りは持続する。「隔離がきわめて有効に行われ(p77)」る。
もし何らかの意図でレベーカという「キャリア」が送りこまれたという「陰謀説」を取るなら、彼女が「喜んで食べる(p70)」土と石灰が怪しい。レベーカは本当はスペイン語を解するものの、マコンドに来た当初は、持参した小さな木製の「揺り椅子に腰かけて指をしゃぶり、おびえたように大きくあけた目でみんなを見つめているだけで、何を聞かれてもわかったという素振りは示さなかった(p69)」。これは失語(声)症ともいえる症状だろう。

冬月:彼女は?
調査隊員:例の調査団、ただ1人の生き残りです。名は葛城
(かつらぎ)ミサト。
冬月:葛城? 葛城博士のお嬢さんか。
隊員:はい。もう2年近くも口を開いていません。
冬月:ひどいな。
隊員:それだけの地獄を見たのです。体の傷は治っても、心の傷はそう簡単には治りませんよ。
冬月:そうだな。

「新世紀エヴァンゲリオン」の葛城ミサトは、幼少期の過酷な体験のため「一時期、失語症になっ」ていた(第弐拾壱話「ネルフ誕生」)。レベーカの生い立ちは明かされないものの、「生まれ落ちたときから病身で飢えに苦しんできたことがわかった(p69)」。おそらく、「伝染性の不眠症」の病原体入りの土をずっと食べさせられ、生物兵器に仕立てあげられたのだろう。とすると、彼女の失声症は不幸な生い立ちに加え、不眠症がもたらす「物忘れ」によるものでもあろう。では、そんな生物兵器を送り込むほどマコンドを、あるいはホセ・アルカディオ・ブエンディアやウルスラを憎む者は誰か?

と、このようにシリアスに解釈できる一方、不眠症がもたらす「物忘れ」は、もっとあっけらかんとした解釈も可能にする。つまり物忘れに対してマコンド内で取った対策が、レベーカの送り主の町でも行われたのではないか、ということだ。

少なくとも何カ月かは記憶の喪失から守ってくれそうな方法を考案したのはアウレリャノだった。(中略)ある日、金属を薄く延ばすために使う小さな鉄床(かなとこ)を探していて、その名前がどうしても思いだせなかった。それを見て父親が助け舟を出した。「鉄敷(クス)、だろ」。アウレリャノはその〈鉄敷〉という名前を紙に書いて、小さな鉄床の裏にゴム糊で貼(は)りつけた。こうしておけば、これから先も忘れることはないと思ったのだ。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p77)

アウレリャノが考案した「ラベリング」による記憶法は「物忘れの無限の可能性」への対抗手段となり、「物じたい」と「用途(p78)」、「人間の感情(p79)」を記すために単語から文章にまで発展するが、所詮「書かれた文章の意味が忘れられてしまえば消えうせて手のほどこしようのない、はかない現実(p78)」の前では過渡的手段に過ぎなかった。「キー・ワード」を読み解き、名前と意味と文脈を救い出すのに「大へんな注意力と精神力を要する」方法を続ける努力よりも、「自分ででっちあげた架空の現実の誘惑(p79)」に多くの者が屈してしまった。そして、埋もれてしまった過去を、ピラル・テルネラのトランプによって占う方法が編み出されてしまう。

つまり、もしマコンドで起こったことがレベーカの送り主の町にも起こっていたとしたら、レベーカに添えられていた手紙の内容は、トランプで占われた架空の過去であった可能性がある。人名(ホセ・アルカディオ・ブエンディア、ウルスラ、「両親」の名)、地名(マコンド、その他の町や村)、血縁という関係性。これらが書かれたカードがシャッフルされ、本来と異なる文脈が形成されていたのだとしたら? つまり、レベーカはまったく縁もゆかりもないマコンドに、まったくでたらめのバックグラウンドを付与されて送り込まれたということになる。

もう一つ注目すべきは、レベーカが「両親の遺骨がおさめられ」た「しょっちゅうコトコト音のする信玄袋(p68)」をたずさえていたことだ。ホセ・アルカディオ・ブエンディアによれば、「死人を土の下に埋めないうちは、どこの土地の人間というわけにはいかんのだ(p27)」ということだった。つまり、「しかるべく埋葬してもらいたい(p69)」と手紙に書かれた遺骨は、仮設的なマコンドのエスタブリッシュのために送られてきたとも解釈できる。だが、送り主の意図に反してレベーカの両親の骨は放置され、家の「思いがけないところにころがっていて」、「あちこちでみんなの邪魔にな(p70)」る。だいじょうぶ(?)。マコンドはいまだ仮設的なままだ。

住人すべてが「その脳裏から、まず幼年時代の思い出が、つぎに物の名称と観念が、そして最後にまわりの人間の身元や自己の意識さえ消えて、過去を喪失した一種の痴呆(ちほう)状態に落ちい(p73)」る事態とは、過去を占うというパラドクスが成立する状況、つまり歴史を失うことである。
しかも、忘却に先行する不眠症は、心身の消耗を招かない。眠りがなく、常に活動できるということは、現在に生きるしかない状況である。「きんぬき鶏の話(p75)」は無限に引き延ばされた現在という時間=永遠の謂いであろう。

この事態への対応策としてホセ・アルカディオ・ブエンディアが思いついたのが「昔ジプシーたちのすばらしい新発明を忘れないために欲しいと思った、記憶装置(p79)」であった。これは記憶の外部化の試みであり、「攻殻機動隊」の「電脳」とも通じる。一方で「記憶の外部化」は記憶の改ざんの危険と恐怖につねにさらされている。「自分ででっちあげた架空の現実(p79)」とは、まさに自らによる記憶と歴史の改ざんである。
よって、かつて地球が丸いことを自力で発見したホセ・アルカディオ・ブエンディアによる記憶の外部化とプロテクションは、方針としては正しい。ただ、技術力や周りの環境や理解(主にウルスラ)が追いついていない。彼の発想に追いつけるのは、「人知の限界をはるかに超えた」メルキアデスとその一族だけだ。しかしメルキアデスは死んでしまった……。

さて、ブエンディア家には、ビシタシオンとカタウレという姉弟のインディオの召し使いがいる。出奔したホセ・アルカディオとピラル・テルネラとの間の子・アルカディオ、そしてホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの間の第3子であり長女のアマランタは、彼女らが面倒を見た。結果、叔母と甥という関係のアマランタとアルカディオは「スペイン語よりも早くグアヒロ語をしゃべり、蜥蜴のスープや蜘蛛(くも)の卵の味をおぼえた」が、ウルスラは「さきざき繁昌(はんじょう)しそうな動物の飴細工(あめざいく)のあきないに忙しくて、それに気づかなかった(p64)」。ちなみに不眠症の感染をマコンドじゅうに広めたのは、この飴細工を通してだった。

インディオの姉弟は、数年前から一族を苦しめだした例の不眠症から逃れて当地へやってきたのだった。かの地ではそれぞれ王女と王子であったというが、地の果てともいえるマコンドまで追ってきた魔の手を前に、弟のカタウレは姿をくらまし、姉のビシタシオンは「この不治の病はどんなことをしても世界の果てまで追ってくるに違いないと信じて(p73)」、ブエンディア家に残っていた。「薄汚い老人が、縄でからげた今にもはじけそうなスーツケースをかかえ(p80)」てブエンディア家を訪れたとき、戸を開けたのはこのビシタシオンであった。彼女はホセ・アルカディオ・ブエンディアに客人を取り次ぐ。

昔会ったが今では思いだせない人間かもしれないと考えて、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは精いっぱい愛想を振りまきながら挨拶(あいさつ)した。しかし、客はそのお芝居を見抜いていた。人間にありがちなただの度忘れではなく、もっとも残酷で、とり返しのつかない別種の物忘れで忘れられたのだということを察した。それは、よく知っている物忘れだった。つまり、死の忘却だったのだ。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p80〜81)

この客人はもちろんメルキアデスなのだが、彼がこの町に蔓延している忘却の病を「よく知っている物忘れ」と言うのはなぜだろうか。

ともあれ、メルキアデスはスーツケースから小瓶を取り出し、ホセ・アルカディオ・ブエンディアに「きれいな色をした液体」を飲ませる。すると、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの記憶に「ぱっと光が射(さ)した(p81)」。

この記憶をめぐる一連の出来事を、不可思議なことと退けるのはたやすい。しかし、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが記憶を取り戻した瞬間、「物にいちいち名札のついた滑稽(こっけい)な客間に自分がいるのを見、しかつめらしく壁に書かれている間の抜けた文句を恥じた(p81)」とある。
ここから言えるのは、物にいちいち名札をつけていたこと、しかつめらしく壁に間の抜けた文句を書いたことは覚えているということだ。物忘れの発作中も、記憶は脳に刻まれ続けていた。ホセ・アルカディオ・ブエンディアらマコンドの住人は、刻まれる続ける記憶にアクセスできていなかっただけだ。

人間の記憶= 過去の記憶 + 現在進行形で刻まれる記憶

この式が成立するなら、右辺の2種の記憶にアクセスできなければ、左辺は無に等しい。だが、この2種の記憶は、まるでホセ・アルカディオ・ブエンディアが夢想した外部記憶装置のようにストックとバックアップを繰り返していたのだ。

もう一点は、「滑稽な客間」や「間の抜けた文句」というように、物忘れしていたときの自己を恥じていることだ。これは、物心つく前の子どものころの行動や言動を、大人になってから恥じることに近しい。つまり、メルキアデスが飲ませた薬は記憶を取り戻すための薬ではなく、認知能力を伸長させる効果を持つと考えることができる。こう考えると、メルキアデスが忘却の病を「よく知っている物忘れ」というのは、人間が誰もが通過する、子供から大人へ長じることを指していることがわかる。そして、「死の忘却」というのは、無知蒙昧な自己を知恵をもって超克していくことを妨げられることを指すのだろう。

さて、メルキアデスによりマコンドの人々は記憶を回復する。ホセ・アルカディオ・ブエンディアは彼と旧交を暖める。メルキアデスは「実際に死の世界にいたが、孤独に耐えきれずにこの世に舞い戻った(p81)」という。そして「生への執着にたいする罰として超自然的な能力のいっさいを奪われ、種族の者に忌(い)みきらわれた」。そして、このマコンドでなぜか「銀板写真術の開発に努力を傾ける決心を固めていた(p81)」。
当然、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはこの技術に夢中になり、「神の存在の科学的な証拠を手に入れるために利用したい(p87)」と考えるようになる。さらに写真術は、「あとにも先にもこれ一枚(p82)」の家族写真をブエンディア家にもたらす。ウルスラを除く、ホセ・アルカディオ・ブエンディア、アウレリャノ、アルカディオ、アマランタ、レベーカという面々の集合写真である。

ホセ・アルカディオ・ブエンディアはメルキアデスと工房にこもり、「酸をぶちまけ、臭化銀をむだにしたりしながら、ノストラダムスの予言の解釈をめぐって大声でわめき立て(p83)」、その横ではアウレリャノが「腕のよい金細工師(p83)」として働いていた。彼だけは「別の時間に身をひそめているように思われた(p83)」。例の家族写真でも「すべてを見通している鋭い視線が(p82)」すでにうかがわれた。

そのアウレリャノは、異性まわりの発展を出奔した兄・ホセ・アルカディオに預けており、肉体的にも兄のような見事な身体をしていないとコンプレックスを抱いていた。ある晩、「自作の歌を披露しながらちょくちょくマコンドにあらわれる流れ者(p83)」、フランシスコ・エル・オンブレがマコンドに現れ、娼館となっているカタリノの店に現れる。この男は歌の中で「道中の村や町で起こった事件のニュースを事細かに語ってきかせる(p83)」。アウレリャノがカタリノの店に現れたのは、兄の行方が知れるかもと期待してのことだった。しかし、「家族にかかわりのありそうなことは何ひとつ耳にとまらなかった(p85)」。家に帰ろうとするアウレリャノを、「四人のインディオが揺り椅子にのせて運ばなければならないほど肥満した女(p84)」が手招きし、言った。

「あんたもはいったら。たった二十センタボでいいんだよ(p85)」

太った女は、混血の娘をアウレリャノにあてがう。娘は借金を返すために「ひと晩に七十人(p86)」(!)の客を取っており、その晩はすでに63人の客を取っていた。

さんざんに使い古され、汗と吐息にこね返されて、部屋の空気は泥のようなものに変わりかけていた。娘はぐしょぐしょに濡れたシーツをはいで、そっちの端を持ってくれ、とアウレリャノに頼んだ。キャンバスのような重さだった。ふたりがかりで端からねじるよう絞って、やっともとの重さに戻った。マットを傾けると、汗が向こうはじから流れ落ちた。この仕事がいつまでも終わらなければいいと、とアウレリャノは心から願った

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p85 ※太字引用者)

アウレリャノはのちに、作り上げた金細工を鋳溶かして金に戻し、また細工を施すという無限ループにとらわれていくが、すでにその片鱗がここに見える。目の前に初体験というミッションが横たわっているのに、現実逃避し永劫性へ思いをはせるーー。そんなことを考えていたら、うまくいくものもうまくいかない。

「娘がいろいろとやってくれたが、ますます気が乗らなくなり、恐ろしいほどの孤独感を味わった(p86)」。

ここにも孤独の変奏が現れる。「アウレリャノは何もしないで、泣きたいような気持ちをもてあまし気味にそこを出た。欲望と同情のいりまじった心で娘のことを考えながら、その夜はまんじりともしなかった(p86)」。
彼は二つの結論に達する。すなわち「何としてでもあの娘を愛し、守ってやらなければ(p86~87)」ということ、さらに「娘が七十人の男に与えている満足を夜ごとひとりで味わう」ことである。しかし、よこしまな思いを抱いたのがよくなかったのか、単にタイミングが悪かったのか、結婚を申し込みにカタリノの店を訪れると、娘はすでに町から去っていた。

アウレリャノの「愛」は成らず、彼は仕事に逃避する。そしてその横ではメルキアデスがノストラダムスの解釈に没頭している。「夜遅くまで何ごとかを書きなぐ(p87)」り、「ある晩、彼はマコンドの未来の予言らしきものを探りあてたと信じた。マコンドはガラス造りの大きな屋敷が立ちならぶにぎやかな都会になるにちがいない、ただし、ブエンディア家の血を引くものはそこにはひとりもいない(p 87〜88)」と。

「この奇妙きてれつな家の中で、ウルスラひとりが常識を守るのに懸命になっていた(p88)」。動物飴細工の商売を拡大し、パンやプディング、ビスケットなどが作るそばから消えていった。彼女は商売に没頭していた。没頭しすぎて、かつて夫が息子たちを不可視の領域に追いやっていたように、娘たちの成長を見逃していた。

ふと息を抜いて中庭に目をやると、見かけないふたりの美しい娘が夕日の下で刺繍(ししゅう)をしているのに初めて気づいた。その二人というのはレベーカとアマランタだった。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p88)

この2人に比べるとアルカディオは「まるで子供だった。アウレリャノについて金細工の修業にはげみ、さらに読み書きを習っていた。ウルスラはすぐに気づいたが、家のなかはすでに人間であふれていた(p89)」。

ウルスラから見ると、家族の内訳はこうなる。
ホセ・アルカディオ・ブエンディア(夫)
(ホセ・アルカディオ)(長男・出奔中)
レベーカ(「外」から送られてきた義理の娘)
アウレリャノ(二男)
アマランタ(長女)
アルカディオ(孫)

ということで、ウルスラは稼いだ金で屋敷の増築に取り組む。しかし「てんやわんやの騒ぎの最中も神の姿を捉(とら)えることに熱中していたホセ・アルカディオ・ブエンディアは、まったくそれを知らなかった。新しい家の造作がだいたい終わったころ、ウルスラによって空想の世界から引きずり出された。みんなの望むような白ではなく、青で建物の外を塗るようにというお触れが出ていると教えられた。役所の通知だという紙っきれを見せられた。何の話かわからぬままに、その署名を読んだ。そして聞いた(p90)」。

「いったい誰だ、この男は?」
「町長よ」と、ウルスラはいかにも言いにくそうに答えた。「政府から任命されたんだって(p91)」

ついにマコンドに本当の「外」からの圧力が及んだ。ホセ・アルカディオ・ブエンディアは、町長のドン・アポリナル・モステコを訪ねる。

「この町じゃ、紙っきれ一枚で、ああしろこうしろというわけにはいかんよ。このさい言っとくが、わしらには町長なんかいらん。何もやってもらうことはないんだから」
いっこうに動じないドン・アポリナル・モステコを見て、彼は大きな声をだしはしなかったが、いかにしてこの町をきずいたか、どんなふうに土地を分配し道路をひらいたか、またどのようにして、政府の手を少しも借りず、誰からも邪魔されずに、必要に応じて改善をはかってきたかなどを、事こまかに話して聞かせた。「ここの人間はまったく穏やかだし、老衰で死んだ者もいないんだ」と言った。「まだ墓地だってない」。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p92)

また死者と墓地の話が出てきた。これらはマコンドの仮設性につながるのだった。そう、マコンドはまだまだ流動的であり、かつての「若き族長」としてホセ・アルカディオ・ブエンディアは「わしの家は絶対に、鳩(はと)みたいに真っ白に塗らせるつもりだから(p93)」と告げる。そして塗らせようとした壁の色のように真っ青になり「こちらには銃があるぞ」と切なげな声で言ったドン・アポリナル・モステコの襟首を、「馬を引き倒した若いころの力」でつかんで高々と持ち上げた。

1週間後、ドン・アポリナル・モステコは6人の兵隊に守られて舞い戻ってくる。護衛付きで役場を再開させる。ドン・アポリナル・モステコは、妻子を連れて戻ってきた。「家族のいる前で辱(はずかし)めるのは男のすることではない(p94)」。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはアウレリャノを伴い、「穏便に事をおさめるつもり(p94)」でドン・アポリナル・モステコを訪ねる。直談判し、兵隊はただちに引き揚げさせること、家には好きな色を塗ってよいということを認めさせる。それさえ認めれば、この町に「居たければ居ればいい」。

町長は指をひろげた右手をあげて言った。
「名誉にかけて誓えるかね?」
「誓うよ。ただし、敵意にかけてだ」。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p95)

「ホセ・アルカディオ・ブエンディアはつらそうな声で付け加え」る。

あんたとわたしは、これから先もかたき同士なんだ(p95)

ホセ・アルカディオ・ブエンディアが敵意をむき出しにするのは、殺害したのち幽霊となって現れたプルデンシオ・アギラルの一件以来だろう。そしてプルデンシオ・アギラルの幽霊の出現は、「若き族長」としての旅立ちをホセ・アルカディオ・ブエンディアに決意させた。つまり、この人は「かたき」がいなければ「族長モード」になれないのだ。

一方、父に従って町長宅を訪れたアウレリャノは、「娘たちのなかでたまたまそこに居合わせた二人」と引き合わされる。インディオの少女の件で傷心だった(?)アウレリャノの心を惹いたのは、「白百合(しらゆり)のような肌に緑色の目をした美少女で九つになったばかりのレメディオス(p94)」であった。「自分の子供だと言ってもおかしくない町長の末娘」の「おもかげが心に焼きついて、彼を苦しめた(p95)」。彼もまだ、「自分の運命を予感してはいなかった(p82)」のだ。

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