(第3回目)網膜色素変性症と診断されてから現在までの間にどのように見えなくなっていったか②
こんにちは。
今回の記事はとても長文になりますのでお時間のある時にお読みいただくのをお勧めいたします、
前回は私が網膜色素変性症と診断されてからどのように見えなくなっていって、どういう事をしたのかという事を簡単に書き出しました。
今回は、前回書いた時系列別の項目について一つずつ詳しく記したいと思います。
再度の説明になりますが、今回この記事を書く目的は、同じ網膜色素変性症を患っている方に私の情報を開示することで少しでもご自身の今後の生活をイメージしていただき、参考にしてもらうことで無駄に不安に駆られたり、闇雲に色んな情報を収集しようとして精神的疲弊してしまうような状態を軽減して、必要な事を必要な分だけ備える時間を作り、浮いた時間をご自身の心の安定に努める時間に使って欲しいからです。
また前置きが長くなりましたが、本題に入りたいと思います。
前回に記載した各時系列における出来事を一つずつ詳しく説明ししていきます、
①28歳…眼科にて網膜色素変性症と診断。
→私は27歳で就職し、1人暮らしを始めました。
視野狭窄の症状はそれまでは自覚はなく、高校生くらいから夜盲の症状はありました。
友人等と比べて夜に目が利かないと感じる事が多々あり、友人等からも冗談混じりで指摘される事が幾度かあり、自分の中で「これは何かの病気なんだろうか?なんか治す方法とかないんだろうか?」と思うようになり、インターネットで「夜 見えにくい 病気」というような感じのキーワードで検索したのがこの病気を知るきっかけでした。
インターネットの検索で夜盲は網膜色素変性症の疑いがあるという事を見かけ、大きな病院で網膜色素変性症かもしれないという事を伝えて診断してもらい、網膜色素変性症と診断されました。
診断された当時の心境は、(自分の夜盲ってただの軽い特徴とかではなくてこんな重い病気のせいだったのか)という気持ちでした。
と同時に(いつ、どう見えなくなるんだろう)という不安の種が心の中に根付いて芽を出し始めた瞬間でもありました。
この不安は病気の進行と一緒に、徐々に徐々に成長して大きくなっていきました。
②29〜30歳頃…周辺の視野狭窄を自覚するようになる。正面を向いた状態で膝から下の部分が見えなくなってきているのを自覚する。
→私の視野狭窄は周辺から中心に向かって徐々に視野が狭まっていく進行の仕方をしています。
この頃から徐々に私生活に影響が出るようになりました。
当時の具体的な視野の数値は記憶していませんが、この時くらいから、前を向いた状態で膝から下のあたりが見えなくなっていきました。
横断歩道手前の車止めのポールや、小さい子供などが視界に入らなくなり、幾度かぶつかる事がありました。
ぶつかる事が多くなると自分が怪我をしたり、相手に怪我をさせる事があ怖くなるようになり、走ることや少し急いでいる時の小走りなどはしないようになりました。
そして、視界に入らない障害物にぶつかる事を恐れて、手に持ってる通勤カバンを若干前に突き出して歩くようになっていました。今思えば白杖のように自分の体の前に物体を出すことで白杖のような使い方をしようと無意識でやっていたのだと思います。
ただ、この頃やもうしばらくの間は1人で気ままに外出することも出来手織り、そこまで生活に重大な影響は生じていませんでした。どちらかというと、いつ見えなくなってしまうんだろうという大きな不安の影がつきまとっていて漠然とした不安が常にありました。
③32〜33歳頃…PCでマウスポインタをよく見失うようになる。P Cでハイコントラスト(白黒反転機能)を少しずつ使い出すようになる。
→この頃から少しずつ仕事に影響が出るようになりました。
視野狭窄が進行し、PCで操作している時にマウスポインタをよく見失う等になりました。
ポインタを見失っては一度マウスを左上にガッと動かして画面の左上端にマウスポインタを移動させてそこから目的地まで辿るようにマウスポインタを移動させるのが癖になってきました。
モニタに表示される文字も通常の白背景の黒文字が若干見づらくなり、ハイコントラスト(色反転機能)をちょこちょこ使い出すようになりました。
はいコントラストを常時使用していたわけではなく、ちょっと見づらいなと感じた時に使う、といった感じでした。
マウスポインタを大きくしたり、文字を大きくしたりもこの頃から徐々にするようになっていったと記憶しています。
④34歳頃…障害手帳取得申請。身体障害2級判定を受ける。ネットで白杖を購入し、プライベートでのみ使い始めてみる。
→この時の一年前くらいに網膜色素変性症外来のある大学病院に何度か通っていました。その時に先生から障害手帳取得できるような状態であることを聞いていたと記憶しています。
ただ、仕事がそこそこ忙しかったのと障害手帳取得の手続き方法がよくわからなかったのと病気に対する不安とで平日の仕事後や休日はゲーム等で現実逃避に費やしていて中々障害手帳取得とまでは至りませんでした。
ただ、この時にはだいぶ視野狭窄の進行を自覚するようになって、(そろそろ手帳取った方がいいか…)と思うようになり、役所に申請して手帳を取得するに至りました。
この頃あたりから夜盲が大分キツくなり、夜に出歩くことは相当数控えるようになりました。
また、白杖をネットで購入し、プライベートでの外出時に使用するようになりました。
歩行訓練士に使い方を教わったりはしていなかったので、杖を左右に振ることはせず、体の前に出して歩くようなシンボルケーン的な使い方をしていました。
このあたりから、映画館やコンサートホールなどで自力で指定されて座席を探すことは無理になってきていたような気がします。
また、私は以前は映画を観るときは字幕派だったのですがこのこ炉から字幕に視線を移すと字幕しか見えず、画面の中で何が起こっているのかを把握するのが難しくなってきました。
⑤37歳頃…うつ状態になり仕事を2ヶ月休職。市役所を通して歩行訓練士の方から歩行訓練や障害年金や様々な情報を得る。
→病気に対する不安自体が前々からあり、以前から都度、不安で不安でしょうがなくて家に引きこもっていたいという気持ちから風邪だったり体調不良と言っては何度か仕事を休んでいたりはしたのですが、仕事での人間関係や病気に対する不安がどうにも大きくなりすぎてしまい、上司の勧めもあり、メンタルクリニックに何度か通って診断書をもらい、2ヶ月ほど休職しました。
この間に役所を通じて歩行訓練士の方を紹介していただき、白杖を使った歩行訓練の手解きや障害年金の申請方法について教えていただきました。
この歩行訓練士とのお話は以後の生活において本当にプラスになりました。視覚障害になってから、知りたかった事や必要な情報を的確に、かつわかりやすく教えていただき、今でも本当に感謝しています。
このあたりから1人でのイベント等の外出は厳しくなってきたなという感じです。
⑥38歳頃…障害年金申請。共済障害年金2級で認定される。(一年後に年金の認定基準変更があり、申請をして障害年金1級と認定される。)
→前述の歩行訓練士さんからのレクチャーをもとに障害年金申請を自分で行いました。障害年金の制度や申請等についてはどこかで詳しくお話ししたいと思っていますが、この時は自分で共済年金の事務局に問い合わせて網膜色素変性症に対応した申請用紙を送ってもらい、病院に行って障害年金申請用の所定の様式の診断書を記載してもらい、年金事務局へ郵送で提出し、無事認定を受けました。
自分で障害年金申請ができた事は良かったと思いますが、正直なところ、社労士にお願いしていたらもっと早くから障害年金貰えたのと、事務手続きが楽だったかなと思っています。
今後障害年金を申請しようと思っている方は、個人的には社労士にお願いした方がてっ取り早いし楽だと思います。
社労士の成功報をケチって煩雑な申請事務を1人でやあるのは色々な面で大変だし、時間を取られてしまうのと、社労士の成功報酬は大体年金の支給一回分くらいなもんなのでそれくらいの額はトータルで見たら微々たるものだと個人的には強く思いました。
⑦40歳…市役所の日常生活支援品給付制度を利用して拡大読書機を購入。
→この頃より2、3年前から仕事などで紙文書の文字を読むのが非常に辛くなっていました。
PCではハイコントラスト(色反転機能)を使って読みやすくできるのですが、実際の紙用紙では自分の視界を白黒反転なんてできませんのでどうにかならないかなあと思ってネットで「電子ルーぺ」とか「デジタル拡大鏡」とか色々調べてみたところ、拡大読書機という道具の存在を知ることができました。
簡単にいうとカメラとモニタを備えたタブレットのようなものでカメラを通して写した映像をモニタに表示し、その映像を白黒反転させて表示もできるし拡大して表示もできる機器です。
拡大読書機についてもどこかで詳しくお話ししたいと思うのですが、行政の日常生活用具給付制度を利用して、ロービジョンを取り扱っている眼鏡屋さんで実物を触れて見積書をもらい、役所に連絡して申請用紙を送ってもらい、必要事項を記入して見積書とともに申請書を送り返す。その後支給決定通知が来るのでそれを持って眼鏡屋さんに行って、自己負担分を支払って現物を受け取る、という流れでした。
この制度についてもどこかで詳しくお話ししたいと思っています。
とにかくこの拡大読書機のおかげで日常生活が格段に便利になりました。
そしてこの前後で、あまり人の顔が見えなくなるようになりました。
見えなくなるというよりは視野が狭すぎて視界に人の顔を捉えられないという表現が近いかもしれません。
また、横断補剛で信号を見つけるのがかなり困難になりました。
夜中とかに、交差点等で信号待ちをしていると信号の場所がわからず、今、渡っていいのかどうかわからず信号の場所を確認している間に二度三度、赤と青の点灯が繰り返されるということも割と多く発生するようになりました。
⑧41歳(現在)…視野5度未満。強制視力0.4程度。。障害者支援サービス制度の利用申請を市役所に申請し、介護サービス事業者と契約して同行援護の利用を開始する。
→一年ほど前から視野狭窄による移動障害が顕著になってきました。
具体的にいうと、イベントなどに出かけようと思って初めて出かける場所はほぼ辿り着けなくなりました。
目的地近くまでは辿り着けるのですが、道のそばに立ち並ぶ複数の建物のうち、どれが目的の建物なのかわからない。
大きな建物や商業ビルの中でエレベーターやエスカレーターの場所が見つからなくてフロアをうろうろしてしまう。
都内の複数路線が乗り入れる駅で、電車から降りて改札まで辿り着くことができない(案内表示を見つけられず、別路線のホームへ迷い込んでしまうのを度々繰り返す。)
電車に乗っていて、駅に着いた際に降りる人の頭などで視界が遮られ、ドアの場所を見失い、座席の方に向かって歩いてしまい、降りれな苦なってしまう。
こういうことが起こるようになりました。
今までできていたことができなくなり、ショックを受けるとともに今度の外出は1人ではほぼ厳しいと感じ始め、行政の障害者支援サービス利用制度を申請して、面談を受けて認定を受け、家の近くの介護事業者を探して契約を結び、同行援護を利用するようになりました。
このサービスのおかげで外出を諦めるという選択を避けることができるようになったのは非常にありがたいです。
と、同時に、この進行スピードだと、おそらく早ければ後5年、甘く見積もっても10年したらもうほぼ失明状態かなという気はしています。
現段階ではスマホの文字も文字を大きくする設定をしていても若干見づらくなってきているところがあり、テレビやネット動画なんかは映像はほぼ見ず、音声だけを楽しむことが多いです。
以上が網膜色素変性症発症から現在までの私の遍歴です。
いざ書き出してみると診断から14年近くでここまで進行しているのは個人的には割と早く進行している気がします、
網膜色素変性症と診断されてまもない方や、病気の進行がまだそんなに進んでいない方にとって、私のこの遍歴が今後の皆さんの進行具合をイメージするのに役立ってもらえるといいと思っています。
自分が、後どれくらいでどう見えなくなってくるのか、という情報が私の時はとにかく断片的にしか情報を得られず、どの段階で何をするのが効果的なのかがわからずとにかく無駄に悩んで不安に駆られて辛い時間を無意味に過ごしていた想いからこの記事を書き出してみました。
とても長い文書になってしまいましたが、少しでも同じ病気の方の参考になれば幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
何かご質問や知りたいこと、気になることがありましたら是非お寄せください。
個人的見解を交えた内容になるかと思いますが今後の記事等でお話しさせていただきたいと思います、