私にとっての「コロナ時代」と「大学生時代」

コロナ時代は、当たり前でないことが当たり前になり、当たり前が当たり前ではなくなっていった時代だった。コロナウイルスの感染が拡大して初めて迎える新学期が、私の大学入学年度であったため、「大学生になった」という自分の中での新しい時代と、「コロナ禍との戦いが始まった」という新しい時代がちょうど対応していた。そのため、正直なところコロナ禍によって特別なにかが変わったのか大学生となったから変わったのか、という違いをあまり気に留めずに日々を懸命に過ごしていた。
しかし、部分的に対面での授業が再開し始めた2020年秋、対面での授業の方に違和感を感じている自分がいた。オンラインでの授業、オンラインでしか会わない友達、それが自分の中での「大学生の授業」となっていたのだ。「大学生の授業=zoomなど、パソコンを用いたオンライン授業」という自分の中での公式はなかなか崩れることはなかった。しかし、考えてみればそれは非常事態の話なのである。自分が入学するほんの一年前は、毎日学校に行き、その流れで友人を作り、数多あるサークル活動を吟味する、というのが当たり前であったはずだ。そういったコロナ禍前の大学生活を少しも経験していなかった私はそのイメージができずに、自分の今生きている大学生活こそが普通だと勝手に認識してしまっていたのである。
対面授業が当たり前であった大学生活を過ごした人からすれば、私たちは「オンラインでしか授業がなく、友達にも会えない可哀想な世代」として映っていただろう。しかし、私はそうした大学生活を全く経験していない世代ゆえに、あまり悲観的な印象を持たずに、今の現状を当たり前だと思っていた。非日常が当たり前となっていたのだ。
実は普通ではなかった自分の大学生活がいかに普通ではなかったか、を自覚したのは全面的に対面授業となった2022年4月であった。自分の大学ではまだオンライン授業のところもあったが、私の学部は人数が少なかったためにいち早く全面対面授業の体制となった。新学期にも慣れてきたある頃、通学距離が長い自分にとって毎日学校と家との間を往復することにより疲れが出始め、「半分くらいはオンライン授業がいいなあ」と思う自分がいた。そこで初めて、コロナ禍時代を当たり前とする自分に気づいたのだ。コロナ禍以前は、授業をオンラインで行うなど、小中高だけでなく大学でも考えられなかった。それなのに、今自分はオンライン授業の選択肢を瞬時に頭に思い浮かべることができる。本来、学校と家を行き来するのが当たり前のはずで、その覚悟で大学に入学したにもかかわらずその当たり前だったはずの移動を面倒がる自分。コロナ禍は、日常を非日常に変えてもいたのである。
コロナ禍における学生生活には確かに制約があったし、多くの人が未知の病に罹患し、そして亡くなったことを思えば、こうした感染症の拡大は起こらないに越したことはない。しかし、こうしたコロナ禍前の日常からの概念の変化に関しては、一概に悪いものであったとは私は思わない。たとえば授業に関しては、自分の体調がすぐれない時や学校に行くのが難しい時、オンラインでの授業参加を先生方に頼む、という選択が今では容易にできる。また、zoomの活用は授業だけでなく、お互い時間が取れずに会うのが難しかった友人との交流手段ともなる。これを活用することが「当たり前」となったのはコロナ禍があってこそであり、私たちに制約を与えたとともに従来あった制約を取り払った点では私たちの大学生活が完全に閉じた世界になったとは言い難いのではないか。

この文章は、「#いまコロナ禍の大学生は語る」企画に参加しています。
この企画は、2020年4月から2023年3月の間に大学生生活を経験した人びとが、「私にとっての『コロナ時代』と『大学生時代』」というテーマで自由に文章を書くものです。
企画詳細はこちら:#いまコロナ禍の大学生は語る|青木門斗|note
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