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高校ラグビーの思い出
高校を卒業したのがもう16年前の事だ。
もうすぐ結婚10周年。
そう思うと結婚するの早かったなあ。
ずっと自分語りを記録する手段を持っていなかったせいで、未だに高校ラグビーの引退について、ずるずると伸びに伸びたラーメンのような思いを引きずっているので、ここで書き起こして供養することにしようと思う。
高校ラグビー部員の宿命
大半の高校ラグビー選手の集大成は、大阪の「花園ラグビー競技場」で行われる全国高等学校ラグビーフットボール大会、通称「花園」、へと続く県予選である。
3校が全国大会へと進める大阪府でさえ、市大会のような都道府県以下の区分での予選がないのは、1チームが15人という大所帯のわりに競技人口がそこまで多くないからなのだろう。
「花園」は、年末をまたぐ約2週間で行われる。
高校サッカーの「国立」と概ね同じ時期である。
ラグビー部もサッカー部も、スローガンとして掲げる目標「全国大会」の時期は概ね同じなのだが、県大会からしか始まらないラグビー部員と市大会から始まるサッカー部員とでは、引退する時期が結構違うのだ。
サッカー部の1次予選は6月から7月ごろ行われる。
ほとんどのサッカー部員は、夏休み前に引退するのである。
彼らは、夏合宿ではなく夏期講習に参加する。
翻ってラグビー部員だ。
ラグビーの県予選は、9月の中旬に始まる。
僕たちは、1回も勝てないかも知れない大会に臨むために、高校3年生の夏休みに、夏季講習ではなく、夏合宿に行くのだ。
高校の同じグラウンドで練習している他の部活が、早々と一つ下の2年生のチームになる中、僕らだけは、いつまでもいつまでも走り回り続ける。
一つの勝利を得ることもないかもしれないのに。
K高校の事情
僕の代、我が母校K高校のラグビー部の事情は少し特殊だった。
中高一貫、共学の進学校、ひと学年が男女合わせて160人程というラグビー部が存在するには、あまりに貧弱な人的基盤だったが、
学校設立時に、進路指導のプロとしてヘッドハンティングした教師が、ラグビー部を作って自分に指導させてくれるなら行ってもいいと言ったとか言わないとかで、野球部がないのにラグビー部はあるというなかなか不思議なラインナップが成立したらしい。
とはいえ、人材不足は深刻である。
僕が中等部入学したとき、一つ上の代には一人も部員が居なかった。
そのせいで、当時の中3の先輩方には強烈な勧誘圧力がかかっていたのだろう。
僕らの代は、9人入部した。
そのまま、一つ上の代には、ぱらぱらと人が出入りしたのだが、結局、上下のボリュームに挟まれて、レギュラーにもなれずに長続きせず、最後まで続けた一人も主将にはならずに、僕の代のKが2つ上の代から主将を引き継ぐこととなったのだ。
つまり、僕らの代は、中2,3、高2、3の4年間をほぼ同じチームで戦ったわけである。
もちろん、2個上の代が中3、高3でいる年も、レギュラーで出ているメンバーもいるし、練習は一緒にやっている。
6年間同じチームで過ごした仲間たちなわけだ。
高校のチームスポーツにおいて、これはかなりのアドバンテージだった。
ほとんどの高校は、毎年、引退して抜けてしまったポジションの埋め合わせが必要だし、そのためにポジションをコンバートしなければいけない選手もいる。
ところが、僕たちは、2年の時に、それらのチームの調整を1年かけて行い、3年生の大会を万全の態勢で迎えればいいわけだ。
そんなわけで、そのアドバンテージが最大に生きている、高校3年生の新人戦、春大会の2大会において、そこそこの強さで、地方大会に出られる程度に県大会を勝ち進んだのだ。
とはいえ、県内ベスト4常連校には太刀打ちできない程度の強さでしかなかったが。
引退試合
話は跳んで、いよいよ引退試合である。
もちろん試合に臨んでいる時は、よもやこれが引退試合になるとは、頭の片隅でしか思っていないわけであるが。
K高校 対 H高校
前述したように、春までの大会で、分不相応な結果を残してしまったK高校。
なんと花園予選で、シード校になっているのだ。
それも驚くなかれ、3試合スキップ、4回戦でお出ましのいっぱしの強豪校扱いである。だが、その実は、平均身長166㎝、平均体重63kgという、まるでホビットの集まりのようなチームだ。
CTB、FBの突破力とWTBの走力で点を取るバックス主体のチームという印象だろう。
対するH高校は、ここまでの3試合、67-0、76-0、49-0、ノーシードとは思えない横綱相撲で勝ち上がり、波に乗っている。
№8のM選手を中心としたFWの強いフィジカルなチームという印象だ。
試合結果は、16-21
接戦ではあった。
それでも、僕の体感としては、完敗だった。
チームとして、H高校は、大会の中で仕上げてきていたし、僕たちと戦うプランがしっかりしていた。
明らかに、弱い所を責められて負けた試合だった。
生殺与奪
H高校は、ハイパントを多用してきた。
K高校のWTBのキックキャッチの精度が高くないことを分かっていたんだろう。
K高校の絶対的なエースであったFBがキャッチできるところには決して蹴らなかったのだから、プランとしてそうしていたのだろう。
キャッチミスで地域を取られる展開が多かった。
FWもラインアウトで、完全に制圧されていた。
マイボールラインアウトの獲得がおぼつかないことも重症だったが、致命的なのは相手ボールのラインアウトモールを止められない事だった。
この年は、モールディフェンスについてのルール改正があったために、各チームその対応で差が出ている部分もあった。
特に、体格で劣り、モール成立前に引き倒して、モールを組ませない事に主眼を置いていた僕らK高校としては、かなり厳しい改正だったのだ。
そして、そのことについて、十分な対策が出来ていなかったことをこの時に思い知らされることになった。
試合中盤だったと思う。
自陣ゴール前10mあたりでの相手ボールラインアウト、明らかにモールでくるのは分かっていた。競り合いを放棄して、モールディフェンスに集中することにした。
ラインアウトのタッチライン際に立ってディフェンスに参加していた僕は、H高校FWがモールを成立させて、じわじわと押してくる中、モールに参加できずにいた。
H高校のエースのM選手が、再度アタックのチャンスをうかがって、モールの最後尾で頭を挙げた時に、目が合ってしまったのだ。
ブラインドサイドのディフェンスは、僕一人、モールに参加すれば、Mが飛び出す。
Mから見える視界が見えるようだった。
自分以外の力で前進しているモールの最後尾で、顔を上げてディフェンスの様子をうかがうのは、FWをしていて、一番気分がいい時間だ。
相手の生殺与奪を欲しいままにしている感覚だ。
そんな状態のMと目が合ってしまった。
それだけが、僕の引退試合の思い出だ。
高校の部活の記憶
だからだと思う。結果を見れば、5点差、1トライ差だ。
接戦だ。
リーグワンなら、ボーナスポイントで勝ち点1がもらえる。
それなのに、完敗の記憶なのだ。なにも出来なかった記憶なんだ。
高校の部活ってそういうものだ。
最後の最後、たった1校の、一度も負けずに最後の大会を終えた1チームの試合に出ていた何名かだけが、自分に出来たことを覚えている。
それ以外の何万人かは、最後の最後でなにも出来なかったことが記憶に残ることになる。