1980年代後半の首都高速湾岸線
この時期は、会社があった品川駅高輪口から頻繁に首都高速湾岸線を使って客先のある佐倉市の国立歴史民俗博物館まで通っていた。
高輪口の会社の駐車場は最近完全に更地になってしまったホテルパシフィックの地下駐車場が確保されていて、そこにある社用車に乗って大井インターチェンジから首都高湾岸線に入る。
クルマは千葉方面に向かうのだが、その頃の湾岸線は大井から東京湾トンネルを抜けると「13号地」インターとなっていた。そう、まだ「台場」インターやお台場エリアは何もない埋め立て地で、お台場の砲台跡や船の科学館があるだけでそのまま有明のテニスの森に。
もちろんレインボーブリッジもフジテレビの社屋も、ゆりかもめはもちろん、国際展示場も京葉線も何も無い埋め立て地で、辰巳ジャンクションから箱崎へとつながる首都高9号線はあったが、葛西ジャンクションから堀切に向かう現在の「C2」もまだ存在していなかった。
湾岸市川料金所を過ぎるといよいよ東関東自動車道となるが、当然のようにまだETCは存在しなかったので全て現金支払いや通行券を有人のゲートでもらっていた。
船橋に入ると海側には巨大な屋根が。何か縮尺を間違えて作って歩道橋のようなものが見えるのだがそれがなんであるのかわからない。
後になってわかったのが人口スキー場である「ザウス」だった。
当時は大学生などを中心としたテニスブームからスキーブームに変化している時期で、国鉄からJRになったJR東日本が、クリスマス時期やスキーシーズンに素敵なCMを流していたバブル前の好景気の時期だった。
幕張の辺りももちろんまだ高層ビルも展示会場も何もなく、ひたすらスルーしているとようやく宮野木ジャンクションで京葉道路と交差して程なくして佐倉インター。成田空港までもう少しというところだ。
この頃の都内から湾岸千葉にかけては、高い建物も無くひたすら埋め立て地を疾走する感じで、当時の社用車だったHonda Civic Siの1600ccツインカムエンジンは気持ちよく私を客先に連れて行ってくれていた。
ちなみに、湾岸線大井インターから南方面はまだ現在の羽田空港は出来上がっておらず、湾岸線は昭和島ジャンクションに繋がって横羽線に接続して羽田インターを迎えていた。