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死に慄いたあのとき-続く生活
「死」というものに対して、恐怖を憶え、そのあまりの理不尽に納得がいかず、泣き叫んでいたことを記憶している。
母、祖母と上の妹とで、夜の食卓を囲んでいた。下の妹が生まれる前か後か、前のような気がする。そうなると、5歳前後という計算になるのか。
記憶の残り方が少し不思議で、自分の両目を通して映し出される光景ではなく、ビデオカメラによって撮影されたような、自分を画角の中心に据え置いた映像が思い起こされる。
どうしてひとは死んでしまうの?
なぜ、ずっと生きていられないの?
そのような言葉を、泣き叫びながら、ひたすらに発し続けていた。
何をきっかけとしてそのような状態になったのか、どのような気持ちの揺れ動きを経て泣き止んだのか、そのときに誰かから何かを言われたのか、全く覚えていない。
そもそもそんな出来事があったのだろうか。
母も、ましてや祖母ももう居ないので、尋ねることはできない。聞いておけばよかったかな。
少しだけ誇らしく思えるのは、そのときに何かの答えを与えられたか導き出したかそうでないのかはわからないが、言語化できていないそのままで、イマも生活していることだ。
言語化や腹落ちをしていないからこそ、得なくてもいい沢山の経験を負ったと同時に、いま、そのおかげで少しだけ誰かにやさしくなれている自分に、繋がっている、と、思う。
いま、死なない理由は、家族が悲しむから、これがもう答えだし、それでいい。
だけど、
どうして死ぬのか、何のために生きるのか。
あの日から今までも、答えが出てるわけもない。
不幸にも、主張の強い季節たちに挟まれたがために、あっという間に過ぎ去ってしまうこの季節、微かに微かに金木犀が主張し始めたことをきっかけに、思い起こされた記憶。
そういえばあの時の季節は、なんだったんだろう。