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人の人生を陳腐なイメージで語るな

前にも書いたけど、僕は生まれて一度も正規雇用者だったことがない。
それは、ゲイである自分は一生結婚や子育てとは縁が無いので、人生のすべての時間を自分の「やりたいこと」に使おうと決めていたからだ。

サラリーマンになってしまったら、歯車の一つになり、自由がなくなるし、周囲に合わせて結婚したり子育てしなくてはいけないという「圧」が高まる恐れがある。
そんな環境では楽しく生きられない。
だから自分は「やりたいことを仕事にする」と。

けど、自分が何をやりたいのか、何の才能があるのか、64歳を迎える今年になっても、まだ見つかっていない。
ていうか、何の才能もなかった、と考えるのが普通だろう。

ただ、「やりたくないこと」はハッキリしていたので、なるべく「やりたくないこと」は避けて生活してきた。

もし結婚して家族がいたら、「やりたくない」なんて理由で仕事を変えるのは難しかったかもしれない。

何ひとつ形にならないまま、この歳になってしまったけれど、「やりたくないこと」をやらなくても飢えずに生きてこられたのはラッキーだと思っている。

今、僕はトナさんと暮らし始めて8年目。
可愛い飼い犬もいる。
金はないけど、これはこれで良い人生なんじゃないかと思っている。

前置きが長くなった。

僕は、ドラマ好きが高じて、去年から独学でテレビドラマのシナリオを書き始めた。
書くときに一番大切にしているのは「登場人物」の描写だ。
僕が今まで「面白い」と思ったテレビドラマは、みんな「登場人物に魅力がある」からだ。そんなの誰でもそうだと思うけど。
そんな時、僕が気を付けるようにしているのは、「陳腐なイメージでキャラを設定しない」ということだ。

高校を卒業し、東京で夢を模索していたとき、ある場所で、60代ぐらいの男性から、こんなことを言われたことがある。

「君の実家は母子家庭なんだろう? だったらこんな不安定な生活は止めてまともに稼いで、女手一つで自分を育ててくれたお母さんに楽をさせてあげるべきだ」

確かに僕は母子家庭で生まれ育ったけれど、なんで見ず知らずの他人に自分の人生を決められなくてはいけないの?

前に何度も書いたけど、我が家はとても「楽しい家族」で、ドラマにしたら面白そうな我が家特有のエピソードがたくさんある。
そういえば、面白いドラマには「よくあるパターン」が少ないかも。
常に「新しい驚き」があるドラマが、僕は好きだ。

みんなが簡単に想像できるような世界観じゃダメなのだ。
この60代男性の脳内レベルの遥か上をいかないと。

先日見たNHKドラマ「憶えのない殺人」について、きのう、長々と感想と提案を書いた。

この先再びドラマ「憶えのない殺人」の内容に触れるのでネタバレ注意です。

繰り返しになるけれど、「地下アイドルとストーカー」の描写は、やっぱり気になる。

あまりにも、普通の想像の域を超えてなさ過ぎる。

僕が母子家庭だと知っただけで、勝手に「女手一つで苦労して大変だった」と決めつけ、さらにアドバイスまでしてきた、あの60代男性の思考レベルで書かれたシナリオだと思った。

せっかく「認知症と殺人事件」という、非常に興味深いテーマなのに、全てが台無しだ。

「地下アイドル」の運営は、少女たちの「夢のやりがい搾取」が多く、頑張っても手取りが少なくて自分でグッズを手売りさせられたり、他にバイトしないと暮らせなかったりするらしい。
大して詳しくない僕ですら、このぐらいの知識はある。

しかし、ドラマの主題は「認知症」なので、この地下アイドルのエピソードは、極めて表面的にしか描かれない。

「認知症」も「地下アイドルのやりがい搾取問題」も、「社会問題」だ。
同じドラマの中に「社会問題」が二つ以上あったら、視聴者は混乱する。

だからと言って、「今回は認知症がテーマだから、地下アイドル問題は『この世に存在しないこと』として流してください」みたいな作り方されてもなぁ…。

普通に「コンビニ店員と客」とかでもいいじゃん。
男が一方的に勘違いして好意を持って付きまとう、という状況は、キチンとエピソードを積み重ねたら、いくらでも設定できるはず。

「地下アイドルとストーカー」という設定にしたのは、ただ安易に、ストーキング状態に陥る様子を「単純化して分かりやすく表現したかったから」以外に理由がないように思える。
大したエピソードを考えなくてもいいから楽できそう、みたいな?

でも、この「わかりやすさ」は、「露出の多い服なんか着て電車に乗るから痴漢に遭うんだよ」という考え方に通じるんじゃないかな?

少なくとも僕には、そう見えた。

作者自身が「地下アイドルはストーカーに遭いやすい」という「決めつけ」で書いているわけだから。

それだと、ストーカー被害に遭う女性に対して「自業自得なんじゃない?」みたいなイメージを持つ人がいるかもしれない。
その迂闊な行為に、作者はどれだけ気付いているのだろうか?

ここで断わっておくが、僕自身は「女性の服装は痴漢被害とは無関係」だと思っている。
ただ、未だにそういうことを言って「被害者側を叩く」人々は少なくない、ということも知っている。
なので、ドラマの中で、「安易なイメージ」で「女性の被害」を描くのは良くないことだ、ということが言いたいだけだ。

主人公が、この地下アイドルの女性を「夢を追いかけて頑張っている女性」だと好意的に語っているのも違和感だった。
ドラマの主人公は、真面目な「元駐在のおまわりさん」だ。
特に時事問題に詳しかったり社会問題を深く語るタイプには描かれていない、極めて実直なタイプだ。
その人が、「地下アイドル」について、何もコメントせず「頑張ってる」の一言で済ませるだろうか?

「なんだか私にはよくわからないけど、最近はこういう仕事があるみたいで…」と思うのが自然だろう。

つまりドラマの作者は、表面的には「地下アイドルは特殊な仕事ではないし、ステキな夢」という形を取りながら、「でもストーカーに遭いやすい」という「偏見」を混ぜて構成してる、ということになる。

回想シーンが「ステージで踊っている女性をギラギラした目で応援しているだけ」という「陳腐な表現」だけなのは、それ以上の考察が全くされていなかった証拠だろう。

「母子家庭」と一言で言っても「いろいろあるんだよ」ということを全く考えていない60代男性の思考レベルで「殺人事件」を描くのって、ちょっと傲慢じゃないのかな?

人間の「殺意」は、ちゃんと丁寧に書こうよ…。

僕とトナさんは、毎週欠かさず「相棒」を見ている。
ファンだから、というより、惰性に近い。
トナさん曰く「見るのをやめたら負けたような気がする」とのこと。
僕も同じだ。
負けるもんか。

ドラマ「相棒」は、毎週必ず殺人事件が起きる「謎解き風」ドラマだ。
45分間で必ず犯人が分かるけれど、その大半は「そんな理由で殺したの?」みたいな脱力するような動機なのが特徴だ。

このドラマを最後まで引っ張っているのは、「誰が殺したのか?」というミステリーであり、ドラマというより「クイズ」として、僕らはいつも楽しんでいる。

「安易な決めつけ」で設定されたキャラクター達が「想像の範囲を超えないレベル」で期待通りに動くストーリー。
前半にヒントをばら撒いて「さあ、犯人は誰でしょう?」と煽り、ヒントが全部出るか出ないかのタイミングで、杉下右京が「すべてわかりましたよ」と語り始めるところでコマーシャル。

僕とトナさんは、ここで録画を止めて、二人で「犯人当て」を楽しんでから後半を見る、という「クイズ番組」として楽しんでいる。
犯人が分かった時、一応「殺意の理由」は説明されるけど、その理由に深く納得することは非常にまれである。

真犯人の「殺意が熟する過程」が丁寧に描かれていないことが多いため、必ず「そんなバカな…」みたいな感想になるのだ。

作る側も承知の上でやってる感じがするし、僕らも承知の上で「楽しんでいる」ので、これはこれでこういうジャンルなんじゃないかと思っている。
「ドラマ風クイズバラエティ」て感じ。

だけど、先日放送されたNHKの特集ドラマ「憶えのない殺人」は、クイズ番組ではない。

「認知症と殺人」という興味深いテーマで作られた意欲作だ(と思って僕らは見た)。

なのに…。
この、殺人のエピソードの描写レベルが、正に「相棒」と同じというか、それ以下というか…。

こりゃないぜ、と思ってしまった。

あ、でも「相棒」は、数回に1回ぐらい「ものすごい傑作」があって、惰性で見てると時々ビックリして感動することがあるから、あなどれないのでした。

さすが長く続いてるだけのことはある。

話は戻って、まとめ。

僕は、40年前に僕に説教した60代男性の思考レベルでキャラクターを作るべきではない、と思っている。

具体的なセリフとエピソード「のみ」で、そのキャラクターの魅力を表現するのが、シナリオライターの務めだ。
世間が抱いている、生い立ちや職業の「イメージ」を借用するだけで、キャラ作りをしちゃダメだ、と。

タイトルの「人の人生を陳腐なイメージで語るな」というのは、ドラマ構成に関することだけではない。

「ブラック・ボックス・ダイアリーズ」の伊藤詩織氏や、ジャーナリストの安田菜津紀氏を見てて思う。

性被害にあった人の辛さは本人じゃないと分からないのに、「平気そうに見える」とか「あんなに元気なんだから別にいいじゃん」みたいに、犯罪を「軽いもの」として忘れさせようとする動きには、常に敏感でありたいと思う。

「勝手に決めるな」

と。

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