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社会人になってからの足跡。新卒から現在まで②

1994年4月に社会人デビューしてから、色々な経験をさせていただきました。また、色々な方と出会い支えていただきました。転職も数回していますが、その度に自分の職務経歴書を見て、「信じてもらえるかな・・・」と思うくらい幅が広いです。現在、メインのキャリアは「管理系」とお答えしていますが、そのきっかけとなった人事部業務に携わるまでの経験と経緯を複数回に分けて、書いていこうと思います。(具体的な会社名は伏せさせていただきます。ご興味のある方はメッセージください。)

前回の記事のあらすじ
新卒として研究開発職に就き、研究室の立ち上げや品質管理、商品・技術開発を楽しく、平和に行っていましたが、「O157」事件で激動の社会人生活へと環境が一変しました。たくさんの人達から支えられて大波を乗り切ったところで、次の職場に転職。ただ、そこは平和過ぎて自分には合いませんでした。次の仕事を探していきます・・・
前回の記事(https://note.com/shiny_moraea618/n/n71705f005b11


自分のやりたい仕事は何か・・・?

半官半民の会社で2年間お世話になった後で、自分は何がしたいのか、自分には何が合うのか、今までの延長線でキャリア形成したいのか、全く新しいことにチャレンジするのか・・色々と考えました。

新卒の時は全くこだわりなく単に「面白そう」で決めて、2社目は「推薦していただき条件が良かった」と、考えもなく会社を選択してきました。しかし、今回はそんな訳にはいかないと思って真剣に考えたのを覚えています。
転職活動で企業の選択軸にしたのは「独自性」「社風」「成長」でした。

そんな中で最後まで悩んだ会社が2社ありました。両社とも最終面接を終え、無事に内定を頂くことができたのですが、1つの会社は誰もが知っている飲料メーカーの研究職でした。ここの研究所の所長さんが私の論文を読まれたことがあって、とんとん拍子に話が進みました。

もう1社は輸入青果物の流通・加工を行っている会社で当時は全国の主要な港に5拠点を有していて、今後カットフルーツやカット野菜の事業を拡大するための技術・開発職でした。

1社目は歴史がある大きな会社ならではの安定した「社風」と研究者としての「成長」が魅力で、もう1社は国内で唯一の技術・インフラを持つ「独自性」と、自分が未知の分野に挑戦することによる「成長」が魅力でした。

結局、私が選択したのは無名の輸入青果物流通・加工の会社でした。決め手は技術系職種という事だけではなく、色々と挑戦させてもらえそう・・・という期待感からでした。

この勘は間違ってなかったのですが、またまた自分から激流に飛び込む選択をしたことになります。

私にビジネスを教えてくれたH社長との出会い

本社勤務で入社しましたが、仕事はほぼ製造現場に張り付く事になります。製造工程を熟知しないと品質や技術の理解はできません。また、一人ではなにも出来ないので、現場の方を味方につける必要があります。

技術的な理解も大切ですが、そこで働いている人の事を理解するのはもっと大切なことだと身を以て感じました。半年くらい経つと、日々の業務が安定してきましたが、今度は新商品の開発が業務に加わります。

今まで経験した開発業務は単に技術屋として「商品を創る」でしたが「売れる商品を創る」にグレードアップしました。営業、製造、マーケティングと色々な部門の人が集まって喧々諤々するのですが、聞いたことのない言葉や考え方に触れて、ワクワクしたのを今でも覚えています。

商品開発の仕事にも慣れてきて、何とか商品の設計が出来るようになってきたころ私が最も長く携わる事になる「事業開発」がスタートしました。

商品開発は定期ミーティングにH社長も参加していました。ミーティングの終了後にH社長から呼ばれ、「東北エリアにセンター造って。場所も決めて。この件は私に直接報告するように」と告げられました(本当にこれだけです)。上司に相談したのですが「頑張って」と言われただけでした。

先ずやったことは、何故東北にセンターを造る必要があるのかを確認する事でした。当時の東北地方は輸入青果の流通量が他の地域に比べて低く、マーケットの確保が難しい状況でした。

東北エリア(青森、岩手、秋田、宮城、山形。福島は関東から配送)の広さの割に流通量が少ないため配送効率が悪く、結果として物流費用が高くなり、それが価格に反映されマーケットが伸びないという現象が起きていて、ここを解消しないと「センターを造る」意味が無いと考えました。東北エリアの各県の流通経路を運送会社の人から聴いて、東北1拠点から効率良く配送できるルートを考え、工場誘致を行っている自治体に片っ端から電話して資料を取り寄せ、配荷可能数を市場ごとに算定してシミュレーションを行う事を1年近くかけて行いました。

一方で、報告・相談はH社長に直接していました。H社長は海外でMBAを取得し、そのまま現地の企業に就職しキャリアを積んできた人でした。シミュレーションの結果を持って相談に行くと、考えつかなかった点を指摘しつつ丁寧に業界慣習やマーケットについてサジェスチョンを与えてくれました。

結局、指示を受けてから3年後に東北のセンターは完成しましたが、社会人生活の中で最も印象に残った仕事になりました。また、この仕事がきっかけでH社長と仕事をさせて頂く機会が増えて、色々な事を教えて頂きました。H社長は私に最も影響を与え、ビジネスマンとしての産みの親だと思っています。

晴天の霹靂

品質管理・品質保証の業務ではISO9001、ISO22000(国内で2番目の取得)の導入、商品開発では加工食品の製造・販売、事業開発では従来の営業先と全く異なる販路の開拓(米軍への納入業者になる。MIL規格に製造環境が適合しているかを衛生管理体制だけでなく、食品テロ防止の観点からも監査される)等の業務をこなしながら数字を追いかける日々が続いていました。

この時は私が入社して10年くらいですが、会社は持株会社体制に移行し、管理部門は持株会社、私の所属している製造・加工・流通機能の会社と、関連会社でMDや営業系の会社、物流会社が子会社として、グループを形成していました。毎年4月に異動が行われますが、年明けに管理本部長から呼ばれ「4月から人事部にきてもらう」と内示を受けました。

その時の第一声は「うちに人事部ってあるんですか?」でした(この時のことは着任後、しばらく言われました・・)。嫌味でもなく、素直に疑問を口にしただけですが、無防備にそんなことを口走るくらいビックリしました。その様子を見て、管理本部長に「晴天の霹靂?」と問われましたが、意味が解らず後で調べました。まさにその通りでした。

しかも、ただ人事部のメンバーになるのではなく、持株会社の人事部長としてグループの人事を統括する立場になるとのこと。人事部なんて、賞与査定と異動辞令以外に意識したことはなく、何をする部門なのか想像すらつきませんでした。それくらい興味がない仕事でした。

次回は、人事部に配属となり、大先輩でもあり部下になった方々に支えられながら、未経験の仕事、人事部門の在り方について悩んだことを中心に書いていこうと思います。最後までお読み頂き、ありがとうございました。


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