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日々の楽しみ

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東京某所

自分の時間

ぜひ♥お願いします!!

「旅行」や「映画館での映画鑑賞」や「観劇やコンサート」、「好きな人とのデート」ほど特別なものでは無くて、いつもの日々の中での楽しみはなんでしょうか。人によってはそんな楽しみは常に変化するものなのでしょうか。例えば極端な話、常に何か新しい発見や経験をすることを日々の楽しみにしているような人。

わたしの場合、小学生の2〜3年生くらいまでそれは「蟻」でした。
虫の「アリ」です。
学校から帰ったわたしはランドセルを置いて庭に出ると、日が暮れるまでひたすら蟻を見ていました。わたしがずっと見ていることなどお構いなしに歩き回る蟻が不思議でならず飽きること無く見ていました。
だから蟻が巣に籠もってしまう冬になると巣篭もりしたくなるほど、わたしも退屈になって困ったものでした。

これが4年生にもなると大切な友だちができました。
その2人の友人と近所の林で秘密基地を作りました。
いま思い出してもなかなかいい基地でした。
人が人に影響を与えたり、影響を受けるのは当然ですよね。
夢中になって遊びました。

わたしは勉強がからっきしで、それに比べて友人2人は明晰だったので、わたしはすっかり落ち込んでどうして良いか分からず、へそ曲になり、しかもそれが中学生ともなると反抗期や思春期にも重なり、毎日がメロメロになりました。この時期の心の支えは「音楽」でした。

まぐれで高校へ進学すると「音楽」に加えて「写真」が楽しみに加わりました。わたしにとって「写真」の素敵なところの一つが<撮る>だけでなく、カメラを持って<出かける>楽しみがあること。せっかく高校受験が終わったのに次なる大学受験が控えていたわたしには勉強机の前から逃れる理由ができてとても嬉しかったのです。

長い長い受験戦争を終えて大学生になると「音楽」と「写真」に加え、わたしの日々の楽しみに「小説」と「映画」が加わりました。

大学生になるまでほとんど馴染みのなかった「小説」と「映画」はわたしにとっては驚くべきものでした。それは他人の考え<想像した物事>がだだ漏れになってそこに表現されているからです。

幼い時分、口を利かぬ蟻と長い時間を共に過ごし、思春期にはへそを曲げて友人と距離を置き、異国の音楽を友としていたわたしは人が人に対してどの程度、己をさらけ出しても許されるのかと言った人と人との居心地の良い距離感を掴むことが難儀だったのです。そしてそれは生身の他人に対してだけではなく、人間の想像によって生まれる創造的な産物に対してもです。

だから、わたしは想像力が奔放に暴れている「小説」や「映画」に度肝を抜かれる思いがしたわけです。

☆本当は「移民の問題」がこのエッセイに続くのですが、長くなるので続きはまたにします。

♥ぜひお願いします!!





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