「15字喋ったら死ぬ」と馬鹿にされた悔しさは、死ぬまで忘れない。
前回の投稿で書いたように、引っ越しに伴い、小学4年で転校したことは、場面緘黙を克服するチャンスだったのだが、結果的に私は失敗した。転校当初は頑張って喋っていたが、いつの間にか、喋れなくなっていた。
それまでの人生は、「喋らないことが普通」だったから、突然普通ではないことに舵を切ろうとしても、小さな身体と心は、自然と「普通」の方に戻っていったんだろう。何十年も経った今、そう自己分析している。
ただ、人というのは、年齢が上がるにつれて残酷になっていくことも判った。
小学4年の子どもは、誕生日になると10歳になる。そのくらいの年齢になると、子どもとは言え「普通である自分」と比べて「普通ではない人」の存在に気づいたときに、それをわざわざ口にするようになる。それ変だよねと周りに共感を求めようとする。
たとえ、言われた相手が、どれほど嫌な思いをしようとも。
喋れないから何も言い返せない
喋れなくなると、一部のクラスメート、特に男子児童からは「何で先生がいないところでは喋らないの?」「 “あ”って言ってみて」と、何度も何度も何度も言われた。質問されても、喋るよう求められても、緘黙なのだから何も応えられなかった。
次第に馬鹿にされるようにもなった。私は、授業中に先生に当てられたときには声を出していたから、「こいつは1日に15字喋ったら死ぬ。だから、普段は喋らない」のだと。
他にも、以前書いたように、うちの母親は声がデカい上によく喋るから「生まれる前に、喋るパワーを母親にへその緒から吸い取られた」とも茶化された。
こちらは、当然嫌な気分になる。喋りたいのに喋れないことを理解されないこともつらかった。早くこの話題が終わってくれと毎回思ったが、思うことしかできなかった。言い返せない分、例えば代わりに殴り返すとか、そんなことができる力があれば、最初から緘黙という不安障害にはなっていなかっただろう。
嘘も真実になる
別の男子児童からは、あらぬ疑いをかけられたこともある。
クラスの「帰りの会」のときに、「気づき」というコーナーがあり、何でも良いので、気づいたことがあれば発表するというものだった。おそらく、クラスメート同士でお互いの良いところを見つけて発表することが本来の目的だったのだろうが、実際は、そのような場にはなっていなかった。ただ気づいたことを言うだけの不毛な会だった。
その「気づき」の中で、私は、家の近くに住んでいた男子児童から、名指しで「赤信号を渡っていた」と唐突に発表されたのだ。
その男子は当時、運動が得意なクラスのリーダー的な存在だったが、その「気づき」は、明らかにそいつの勘違いか人違いだった。私は、歩道橋があるところでは、律義にそれを渡るくらいの子どもだったから、赤信号を渡るなんてことは絶対にありえなかった。
だが、先生がいる「帰りの会」であっても、私は「そんなことはしていない」と反論することができなかった。突然、事実に反することを言われた驚きや戸惑いもあっただろうし、授業中での答えが存在する問いとも違い、そうした自由な発言をする経験値がなかったこともあるだろう。私は、何も言い返せず、ただ俯いて黙っていることしかできなかった。
それは結果的に、そいつの発言が、事実だと暗に認めることになってしまった。
喋れないということは、自分の正当性すら主張できないのだ。人が言った嘘も、真実になってしまう。沈黙は、損なのだ。
その男子児童は、嫌がらせでそんなことを言ったようには見えなかった。本当に、見間違いをしたんだと思う。だけど、赤信号の横断歩道を渡ったとか、そんなどうでもいいことをみんなの前で発表し、正義感ぶって個人攻撃をして、クラスで目立とうとする嫌らしさが垣間見えた。
こいつ死ねばいいのに。
私が生まれて初めてそう思った相手かもしれない。
当時はまだなかったが、小学4年と言えば、「2分の1成人式」とやらが行われるくらい、良くも悪くも成長する時期だ。10歳を過ぎる頃には、そうした嫌なことを言って攻撃してくる奴らが徐々に現れてきた。
私は、今でもそいつらの名前や顔を覚えている。できないことを茶化され、馬鹿にされた言葉、何も言い返せなかった悔しさ、嘘を真実にされた屈辱は、何十年経っても決して風化しない。死ぬまで忘れることはないだろう。
中学になると、その個人攻撃は、「いじめ」になっていった。