#011 「中東への視角」牟田口義郎 志賀重昂③オマーン
志賀曰く、
「鏡の面よりも平らかなる深甚の海水より大巌石の絶壁は空をえぐりて並び立ち、一本一樹の之に生ずるものなく・・・」
「王宮は海岸の波うち際に立てる三層楼である。宮門に行くと、衛兵は誰何した。予は日本ジの名刺を出した。衛兵は携えて内に入った。
「予は万里の日本よりこのオマーン国に来たり、折角国都にも来りたるが故に一度国王殿下に拝謁、オマーンと日本と親交せざるべからざることを言上し、かつ日本国民をして天下の風采を想望せしめたしと思うと答えた。二・三分経つと、この人は再び来たり、国王陛下に貴下(志賀)の意思を言上したるに、陛下に嘉納したまえりと伝えた。衛兵は三層楼に予を案内した。(略)こうして、志賀は王宮の中に入る。迎えたオマーン国王は、タイムール王であった。
「内に入ると、海を見下ろす露台の此方、奥まったところに、普通のアラビア人よりは色のもっと白く、鼻の下に揃える髭を蓄え、画に描ける諸葛孔明のごとき年齢四十ばかりの好丈夫が頭の上より純白雪のごときカシミール絹をかぶり、素足のまま、悠然と西洋輸入のソファに腰をかけている。(略)実に、好丈夫その人がオマーン国王であるを知った。」
この国王こそが、タイムール・ビン・ファイサル・アルサイド王であった。
1973年、朝日新聞の下村満子記者が単身マスカットを訪問し、日本人女性として初めて日系王女であるブサイナ姫と会見することに成功したが、このブサイナ姫の父親が、志賀が会見したタイムール王であった。
(注 報告者)
ちなみに、タイムール国王の次の国王は息子のサイード・ビン・タイムール王。この王が1970年7月23日のクーデターで、息子のカーブ―ス王(在位1970年7月~2020年1月)に追われることになる。現在のハイサム国王(在位2020年1月~)はカーブ―ス王のいとこ。
志賀とタイムール王の会談。
「予は起立して敬礼すると、王には気持よき微笑を面にたたえつつ、手真似してソファーに坐せよというわる。予は坐した。王曰く、よくもここまで来てくれられた、アラビスタン(アラビア人の国)も日本と同じアジアの内にあるにあらずや、ヨーロッパはヨーロッパ人の為すところに任す、アジアはアジアに所在するお互いに任せざるべからず、何故に日本人は疾くアラビスタンに来たらざるや・・・」(略)
会見は終わり、志賀は王に記念のための親書を乞う。王は厚い白紙に玉璽を押して奥伝に入り、「回教起源1342年ラジャーグ月、日本人志賀、我を訪問す」とアラビア文字で書き込み、署名して出て来て、自ら指で一字一字説明するという親切さであった、とある。
日本の中東史の第一章は、志賀に始まる。
現在、日本の政治家でオマーン王室に強いコネクションを有しているのは、西村康稔(兵庫9区、前経産大臣)だが、100年前の志賀重昂(政治家ではないが)を忘れないようにしたい。
タイムール王は、戦前、神戸に亡命し、日本人妻との間に女の子をもうけている。それがブサイナ姫であった。詳細は、下村満子著「アラビアの王様と王妃たち」(朝日新聞社)に詳しい。
退位したタイムール王は、日本で余生を送ることになったが、そのきっかけを作ったのは、志賀重昂であったはずだ、と牟田口義郎は書いている。
しかし、志賀はタイムール王が神戸に落ち着くより10年前に死亡している。日本から来た友人に会えなかったのは確かに残念であったろう。
日本とオマーンの隠れた歴史であった。
「中東への視角」牟田口義郎のP23、P24からの転載
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?