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映画評6 ドン・シーゲル『ダーティハリー』(下)
1 戦慄のバスジャック
『ダーティハリー』終盤の恐るべきヤマ場は、ハリーによる逮捕が違法であるという理由で釈放された連続殺人鬼サソリが、スクールバスを乗っ取り、市長に20万ドルの身代金を要求し、国外逃亡をはかる場面で始まる。
運転手の中年女性に拳銃を向け、バスを発車させ、子供たちに「漕げよマイケル」を歌わせていたサソリは、前方の陸橋の上に、ハリー・キャラハン刑事/クリント・イーストウッドの姿を認め、顔を引きつらせる。
そして、バスが陸橋にさしかかった瞬間、ハリーはバスの屋根に飛び乗る。ドン・シーゲル/アルフレッド・ヒッチコック的な、【高所】からのジャンプという垂直の運動だが、そのシーンが目を奪うのは、たんに垂直のアクションが描かれるからではない。ハリーの垂直のジャンプと、走行するバスの水平の運動という、二つのアクションが瞬時に直交するからだ。つまり、垂直と水平の運動が、同時に一点で交わるからである。
角度こそ違うが、高層ビルの屋上から、斜め下方のプールを水泳中の、つまり水平運動中の女をサソリが狙撃する場面がそうであったように(ドン・シーゲルが1974年に撮った逸品『ドラブル』にも、英国情報機関の工作員マイケル・ケインが、橋の上から川を航行する貨物船に飛び乗るシーンがある)。
また、陸橋にハリーが不意に出現する場面は、ある人物が【いつの間にかそこにいる】という、シーゲル/ヒッチコック的な大胆な時間省略の手法だ。
こうした【不意打ちショット】は、たとえば、イーストウッドが自作自演した初監督作『恐怖のメロディ』(1971)や、ロバート・ハーモンの『ヒッチャー』(1986)、さらに黒沢清の『Cloud/クラウド』(2024)などの傑作スリラーで、巧みに使われている(ヒッチコック映画では、渡米後第一作『レベッカ』(1940)で、ヒロインの「わたし」(ジョーン・フォンテイン)の背後に、いつの間にか立っている使用人ダンバース夫人(ジュディス・アンダーソン)の姿が、見る者をぞっとさせる)。
2 面白さの限界点
さて、バスジャックの場面で、サソリはバスの天井に向けて拳銃を何発もぶっ放すが、屋根に張りついたハリーには命中しない。バスはそのまま採石場の砂山に突っ込み、工場内に逃げ込んだサソリと、彼を追うハリーの激しい銃撃戦になる(そこでも、煤煙と粉塵が巻き上がり、画面を覆う)。
そして、ついにハリーは、どんよりと青黒い水を湛えた池のほとりに、サソリを追いつめるが、サソリは釣りをしていた少年を人質にとり・・・。見てのお楽しみであるが、そこでもドン・シーゲルは、空間の高低差を見事に活用している。
ところで「中」で論じた、本作における容疑者や被害者の人権をめぐる法的ジレンマ/葛藤は、何よりもまず、映画のスリルとサスペンスを増幅するための、つまり映画を面白くするための、いわば燃料である(活劇であれメロドラマであれ、「葛藤」「確執」「対立」は、物語を駆動する力となる)。したがって『ダーティハリー』は、ハリー・キャラハンの捜査が違法か否かを問いかける「社会派映画」では、毛頭ないのだ。
繰り返すが、変則的な勧善懲悪のドラマである『ダーティハリー』は、手に汗握る、ひたすら面白く戦慄的な犯罪活劇なのだ。しかし、だからといって、『ダーティハリー』を「娯楽/エンターテインメント映画」と呼ぶことはできない。なぜならこの映画は、「娯楽」として消費してしまうには、あまりに面白いからである。ゆえに、何度も見たくなるのだ。(了)
補説
1
前述のように『ダーティハリー』は、結末に向かって最短距離で疾走する『殺人捜査線』(1958)のような「B級」活劇ではなく、蓮實重彦が前掲書で言うように、物語は大きな迂回、遅延を含む(しかし緊張は途切れない)。
たとえば前半の、主筋には直接関係のない、ハリーが黒人の銀行強盗を逮捕するエピソードは、消火栓から噴き上がる水が画面を覆うなかで銃撃戦が展開される、まさしく混沌とした「迂回」のシーンだ。同じく前半の、ハリーがビルの上層階で自殺志願者の男を救助するくだりも、スリリングではあるが、やはり主筋には無関係なエピソードである(そこでもドン・シーゲルの「高所」への執着が顕著)。
また中盤の、あの夜のスタジアムでのサソリ逮捕の場面は、対峙するハリーと傷を負ったサソリをセンターライン付近に取り残したまま、霧の中を遠ざかる大俯瞰のヘリコプター・ショットで、文字どおり宙吊り状態のままーー観客の期待をはぐらかすようにーー、ゆるやかに閉じられていく。映画の主筋でありながら、物語を大きく停滞させ迂回させる、カタルシスを欠いた奇妙なシーンだ(鈍い衝撃をもたらす名場面だが)。
2
ハリーとサソリは、暴力や憎悪の激しさにおいて、互いが互いの分身と化していく、あるいはサソリはハリーの負の分身である、と言われることがあるが、それは違うと思う。すでに述べたように、ハリーはあくまで己れの正義/法にのっとって、凶悪な犯罪者を成敗しようとするのに対し、サソリはひたすら残忍狡猾な連続殺人鬼でしかないからだ(作中では、サソリの犯行動機はいっさい説明されず、ただ彼の行為だけが、そのつど現在進行形で描かれるのみだ。観客がかろうじて感じ取れるサソリの内面は、せいぜい歪んだ自己顕示欲や承認欲求くらいだろう)。
3
「補説1」で述べた、ハリーによる自殺志願者救助の場面と、ハリーがサソリによる電話の指示で市内を引き回される場面の一部は、シーゲルが体調を崩したために、代役でイーストウッドが演出したが、いずれも、映画作家イーストウッドの誕生を告げる見事なシーンである。前述のように、イーストウッドの監督デビュー作は、『ダーティハリー』と同じく1971年公開の『恐怖のメロディ』だが、イーストウッドはドン・シーゲルから、映画づくりに関する多くのことを学んだのだ。二人の師弟関係ないし盟友関係は、まったくもって幸福なものであったと言わざるをえない。
4
1950年代のシーゲル作品に比べれば、著しい停滞や迂回を含む『ダーティハリー』では、しかし、サソリによる黒人少年殺害や少女の誘拐、殺害の現場は省略されている。こうした作劇も、大きな迂回を含みながらも、本作が二時間をはるかに切る(102分の)、緩と急をバランスよく配したタイトな活劇となった一因だろう。
それにしても、本作の脚本は入念に練られていて、感服する。もっともドン・シーゲルは、しばしば脚本を大幅に書き直しながら撮るそうだが、その場合でも脚本は叩き台になる、重要な【素材】となったに違いない。
5
序盤の銀行強盗逮捕のシーンで、拳銃を手放した黒人の犯人に、ハリーが「脳みそがぶっ飛ぶ」威力のあるS&Wマグナム44を向けて、「試してみるか?俺の拳銃に弾が残っているかーー」と挑発するセリフは、のちの場面の、より切迫した状況で反復されるが、これまた、「良識派」の神経を逆なでするようなセリフだ。
6
本稿を書くにあたって参照した、上記以外の参考文献を挙げる。記して感謝したい。
●中条省平『クリント・イーストウッド アメリカ映画史を再生する男』(朝日新聞社、2001年、のちに筑摩学芸文庫化)。
●遠山純生「最後の独立独行人 映画作家ドン・シーゲル」『ドン・シーゲル セレクション』(ストレンジャーマガジン005/ストレンジャー刊、2023年)
●町山智浩『「映画の見方」がわかる本』(洋泉社、2002年)