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映画評5 ドン・シーゲル『ダーティハリー』(中)

1 「良識派」の批判

 『ダーティハリー』(1971)は、深刻なメッセージや思想など何もない、問答無用に面白い刑事アクション=ジャンル映画だ。にもかかわらず、敏腕刑事と連続殺人鬼の対決を描くこの映画には、痛快さとは異なる、何か得体の知れない混沌が渦巻いている。

 それは、蓮實重彦が鋭く指摘した、1970年代のドン・シーゲル作品を特徴づける「混濁」、つまり噴き上がる水、あるいは立ちこめる濃い霧や煤煙によって画面/視界が覆われる不透明さによるものでもあろう(蓮實重彦「ドン・シーゲルとリチャード・フライシャー、または混濁と透明」『映像の詩学』筑摩書房、1979年、のちに筑摩学芸文庫化)

 しかし、ここで注目したいのは、悪党退治のためには暴力も辞さないハリー・キャラハン刑事/クリント・イーストウッドの捜査手法が、ひいては世の中のすべてにうんざりしているような、斜に構えた皮肉屋でへそ曲がりな彼のキャラクターが、それまでのハリウッド映画の刑事像に比べて、極めてユニークで型破りな点だ。

 そしてそれは、多くの観客を熱狂させると同時に、少なからぬ「良識派」の批判を浴びた。とりわけ「上」でも触れた、プールで泳いでいた若い女と黒人の少年を殺害し、14歳の少女を誘拐した異常者のサソリを、ハリーが、煌々(こうこう)とライトで照らされた夜の無人のスタジアムに追いつめ、手荒く逮捕する場面が問題視された。

 ーーそこでハリーは、サソリに向かって、令状なしに、また黙秘権行使を通達することなしに、発砲する。銃弾はサソリの左足に命中するが、あまつさえハリーは、サソリの血まみれの二つの傷口を容赦なく踏みつけ、少女の居場所を吐かせたのち、この殺人鬼を捕らえるのだ(サソリの左足には、彼に殴打されたハリーが間一髪で隠しナイフで突き刺した傷もあった。なお、その時すでに少女は生き埋めにされ死んでいる)。

 この場面に対し「良識派」は、ハリーのサソリ逮捕が正当な手続きを踏んでいない違法行為であり、容疑者の人権を侵害するものだと非難した(サソリもハリーに足を踏みつけられたとき、法的手続きをとってくれ、と叫ぶ)。

 しかし、残忍で狡猾なーー法を楯にするーー悪党を倒すためには、【法外/アウトロー】な、いわば超法規的な「正義/裁き」を執行すべきだ、というのがハリーの信念だ。つまりハリーは、いったん法の外へ出て、極悪人を裁くのである。そして、多くの観客はアウトロー刑事、ハリー・キャラハンの破天荒な行動に感情移入し、拍手を送った(私もその一人だ)。

2  自警団思想?

 もっともハリーの行動は、一歩間違えば、『牛泥棒』(ウィリアム・ウェルマン、1943)ーーイーストウッドの偏愛作ーーなどの西部劇でしばしば描かれた、自警団的リンチ/私刑と化す危うさをはらんでいる。事実、『ダーティハリー』に、自警団思想やファシズムを見てとる批評家もいたが、しかし私見では、ハリーは広い意味での【法/正義/秩序】の側に踏みとどまって、職務を遂行していると思う。

 ただし、ハリーの考える法/正義は、現行法とはズレているのだが、要するに彼は、容疑者の人権が過剰に守られている現状に対し苛立っており、殺された被害者の権利はどうなるのか、という異議申し立てを行動で示すのである。

 ちなみにハリーは、相棒のメキシコ人刑事チコに、「俺は汚い仕事ばかり押しつけられるから、汚い(ダーティ)ハリーなのさ」と言うが、つまりサンフランシスコ市警察の幹部は、ハリーの過激な言動に眉をひそめながらも、彼の知力と行動力に頼らざるをえないのだ。警察幹部にとってハリーは、いわば「必要悪」なのである。

 ハリー・キャラハンの人物造形について、山田宏一はいみじくもこう言うーー「・・・ドン・シーゲルの映画の核になるのは、思想ではなくて、アクションそのものであるから、主人公は作家の思想を代弁する存在ではない」(「暴力には暴力だ!」『映画 この心のときめき』、早川書房、1989)。

 そう述べて山田は、ドン・シーゲルの次の名言を引くーー「ダーティハリー(ハリー・キャラハン)は(中略)人間嫌いだ。彼は、法を破る者は誰でも毛嫌いし、また、法の管理のしかたも気にくわない。彼は、犯罪者を取り扱うこの近代的な方法のすべてに反対している。しかしこのことは、わたしが彼と同じ意見だということを意味してはいない」(同)。

 ドン・シーゲルは、ハリーは自分の考えの代弁者ではない、と言いつつ、ハリーが自警団的な人物ではなく、現代の法のあり方に異議を唱える、ある意味、至極まっとうな法の番人である、ということを、アクロバティックで婉曲な言い方で述べているのだ(なんという賢明さ!)。ともあれ、ハリーの行動を、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスの視点から批判するのは、すべからく見当違いである。

 

3  ヤマ場→ダレ場→ヤマ場・・・のサイクル

 ドン・シーゲルの最良の映画では、ヤマ場→ダレ場→ヤマ場・・・というサイクルが、一瞬たりとも弛(ゆる)むことなく展開される。たとえば前々回本欄で論じた『殺人捜査線』、あるいは『第十一監房の暴動』、『殺し屋ネルソン』といった1950年代ーー古典映画末期ーーの、撮影日数がおおむね二十日間以内の傑作群が、その最たる例であるが、むろん『ダーティハリー』もその例にもれない(ただし、物語が効率よく速やかに進行する50年代作品と異なり、「現代映画」である『ダーティハリー』では、語りにおける緩急のチェンジ・オブ・ペース、あるいは蓮實重彦が前掲書で指摘したように、物語上の迂回や停滞、画面上の混沌/混濁が顕著になる。なお、『ダーティハリー』の撮影日数は六十日間)。

 もちろん、ダレ場とはダラけた場面のことではなく、『ダーティハリー』なら、ハリーが上司や市長や検事と対面したり、病院で手当てを受けたり、激務に耐えられず退職する相棒のチコと言葉を交わすところ、つまりアクションが全開するヤマ場/見せ場以外のシーンのことだ。

 そして、名監督の定義のひとつは、ドン・シーゲルのように、あるいはジョン・フォードやフリッツ・ラングや山中貞雄のように、ダレ場でも劇的緊張を途切れさせずに撮れる映画作家、となるだろう。

 ともかく『ダーティハリー』の後半でも、容疑者サソリの人権を守れ、と頑迷に言いつのる人権派(?)検事に業を煮やしたハリーは、果敢な単独行動に出るのである(その時点でサソリは、ハリーの不当捜査を理由に釈放されている)。映画は、ダレ場から、終盤のヤマ場へと急展開するのだ。

 次回(「下」)は、この戦慄的なクライマックスにおけるドン・シーゲル演出を中心に、引き続き『ダーティハリー』の稀有な面白さを語ってみたい。
           (「下」へ続く) 

補説

1 『ダーティハリー』は自警団ファシズムを礼賛する映画だという批判に対し、イーストウッドはあるインタビューでこう答えているーー現代では複雑化した官僚機構かすべてを牛耳り、書類の山が人間の生活を侵食している。ハリー・キャラハンは、警官が同じ十五枚の書類を書かなければならないあいだに、犯人がさらなる犯罪を犯すことをじかに阻止する人間なのだ、と(マイケル・ヘンリーによるインタビュー、橋本順一訳/「ユリイカ」1993年8月号、青土社)。言い得て妙である。

2
  テッド・ポスト監督、イーストウッド主演の『ダーティハリー2』(1973)は、文字どおり自警団的私刑を行う白バイ警官集団とハリーが対決する興味深い映画だが、こちらも大ヒットした。なおテッド・ポストは、やはりイーストウッド主演で自警団的私刑をモチーフにした西部劇、『奴らを高く吊るせ』(1968)も撮っているが、見応えのある力作だ。さらに、ドン・シーゲルが1969年に撮った西部劇、『ガンファイターの最後』も、自警団同士が闘う必見の怪作。



 

 



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