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【映画評】3:必見!『殺人捜査線』(ドン・シーゲル、1958) 

 

1   修業時代に学んだ編集術

 ドン・シーゲル(1912~1991)といえば、一般には『ダーティハリー』(1971)の監督として知られている。クリント・イーストウッドをドル箱スターの座に押し上げた、あの刑事映画の傑作だ。 

 しかし、この大ヒット作で映画作家としての名声を得るまでには、ドン・シーゲルは長い修業時代/下積み生活を経ねばならなかった。ここでの本題は、ドン・シーゲルの知られざる超傑作、『殺人捜査線』(1958)を論じることだが、その前に、彼の前半生の、苦難の連続であった映画的キャリアをざっと記しておこう。

 ーーハリウッド全盛期の1934年、大手映画会社ワーナー・ブラザースに入社したドン・シーゲルは、ラオール・ウォルシュ、ハワード・ホークスら大監督の編集助手や助監督を務め、彼らの下(もと)で、編集/モンタージュの技法、すなわちカットとカットをどう効率良く、かつ効果的につなぐか、という映画技法を実戦的に学んだ。

 苦労の多い裏方仕事ではあったが、メジャーの映画会社が製作・配給・興行を一手に引き受ける、いわゆる撮影所(スタジオ)システムが機能していたハリウッド全盛期に、ベテラン監督に付いて、物語をテンポ良く簡潔に語る編集スキルを培(つちか)ったことは、ドン・シーゲルにとって極めて有意義であった。

 もっといえば、撮影所という「場」が機能していたからこそ、その「場」とドン・シーゲルの潜在能力とが、いわば化学反応を起こして顕在化し、のちの監督業において目ざましく開花するのである(撮影所システムは1950年代に、テレビの普及、独占禁止法の施行、赤狩りによって崩壊する)。

 ただし、硬骨漢でもあったドン・シーゲルは、大手会社の幹部らとしばしば対立し、一度ならず仕事を干されたが、そうした経営陣との確執は1980年代まで続いた。なお、ドン・シーゲルの長編監督デビュー作は、1946年の『ビッグ・ボウの殺人』。                 

2  突出した傑作『殺人捜査線』

 さて、1950年代に映画の宿敵として台頭するテレビのドラマ演出においても、ドン・シーゲルは非凡な才能を発揮する。『殺人捜査線』も、ドン・シーゲルがそのパイロット版を手がけた同名のテレビシリーズを、彼自身が長編映画として撮り直した作品であるが、テレビシリーズとは段違いの出来栄えの、とんでもない傑作だ(日本未公開)。

 麻薬密売組織に雇われた悪党二人組と、サンフランシスコ市警の攻防を描くこの映画は、低予算・早撮りの、いわゆる典型的な「B級映画」である。だがドン・シーゲルは、その制約を逆手に取って、必要最小限の物語情報だけをテキパキと観客に与えながら、一瞬たりとも緊張が途切れない、87分のタイトな犯罪活劇を撮り上げたのだ。

 なにしろ、約一分の冒頭シーンからして、畳みかけるような編集のテンポで、いくつものアクションが矢継ぎ早やに展開され、画面を席巻(せっけん)する。

 ーーサンフランシスコの埠頭で、荷物係が香港からの船客のカバンを奪い、タクシーの中に押し込む。運び屋の運転手はタクシーを急発進するも、トラックに衝突。運転手は必死にハンドルを切り、辛くもその場を離れ、制止しようとした警官をはね、そのまま全速力で逃げおおせるかに見えたが、瀕死の警官が路上に倒れたまま放った銃弾により、運転手は即死、車は道路を外れ、線路上の荷物車に激突、そこでTHE LINEUPというタイトルが出る(lineupは「面通し」を意味する英語)。

それにしても、約60秒間になんと多くの出来事が起こることよ。今の映画だったら、これだけを描くのに何倍もの時間をかけるだろう。

 3    精神病理学的アクション映画

 こうして、以後さまざまなヤマ場の波状攻撃が観客を身震いさせ、かつ、その戦慄を観客がたっぷりと堪能する『殺人捜査線』が始まるのだが、本作と『ダーティハリー』には大きな違いがある。

 ーー『ダーティハリー』ではクリント・イーストウッド扮するすハリー・キャラハンという、ときに悪党に対し違法すれすれの暴力を振るう辣腕(らつわん)刑事と、「さそり」を名乗る精神異常の殺人鬼との死闘が、キャラハンの活躍にフォーカスして、文字どおり【法外/アウトロー】な正義感にもとづく、彼の過激な言動をメインに描かれる。

「さそり」の残忍な異常性が丁寧に描かれるにしても、それはあくまで、キャラハンの活躍と彼の不屈の闘志を際立たせるためだ。

 いっぽう『殺人捜査線』は、サンフランシスコ市警の刑事らの地道な捜査や、いざというときの彼らの果敢な追跡や発砲は描かれるものの、彼らの出番はさほど多くない。刑事らを好演する役者たちも、スターではない強面(こわもて)の渋い名脇役だ(ワーナー・アンダーソン/ベン警部補、エミール・マイヤー/アル警部)。 
 
 ドラマの前面に出るのは、麻薬密売組織の二人組、とりわけ、オープニングで最初にクレジットされる主演のイーライ・ウォラックだ。そして、いかにも「B級」的な、ちょっと見には平凡な勤め人風のウォラック扮するダンサーが、次第にその異常性をあらわにしていくところが、本作の肝(きも)である。

 つまり、この映画の主役は、刑事たちではなく、あくまでダンサーという精神病質者、つまりサイコパスなのだ(ロバート・キース扮するジュリアンというダンサーの相棒は、ダンサーのことを、精神病理学者が研究したがる逸材であり、憎しみ/ヘイトの中毒症だ、と言うが、このサイコパスが、ニカッと小さく笑ったり、横目で鋭く何かを見やる表情にぞっとする)。

4 ヘロイン回収場面の戦慄 

 平然と人を殺すダンサーの武器は、サイレンサー付きの拳銃だが、それが最初に発射されるのは、サウナのシーンである。

 標的は、ウィリアム・レスリー扮する、船の乗組員ワーナーだが、ヘロインの運び屋である彼は、ダンサーたちに金をせびったために、もうもうと湯気の立ちこめるサウナで、ダンサーに射殺される(この場面では、舞台がサウナという視界不良の空間であることが、ダンサーの非情さとあいまって、サスペンスを増幅しているが、サイレンサーのプシュッという低い発射音も不気味だ)。

 さらに、ダンサーが、知らぬまにヘロインの運び屋にされている或る富豪の邸宅を訪れる場面。ダンサーに、ヘロインを仕込んだ銀の置物の在りかを詰問されているうち、危険を察知した東洋人の執事は、二階で就寝中の主人を呼びに階段を駆け上がろうとしたところを、ダンサーに撃たれる。ーーこの短い場面が凄いのは、被弾し、階段から転げ落ち絶命する執事が、壁の鏡に映る映像として示される点だ。

 おそらく、ドン・シーゲルが、アルフレッド・ヒッチコックやラオール・ウォルシュに学んだ高低差を活用した空間演出だが、それを鏡像として見せるアイデアが、なんとも心憎い。

 後半の、ダンサーとジュリアンが、幼い娘を連れた婦人ドロシー(メアリー・ラロシュ)に接近する、スートロ博物館内の水族館のシーンも忘れがたい。

 ドロシーが東京で買った日本人形にはヘロインが仕込まれていたが、そうとは知らぬまま、彼女は娘と水族館に行く。ダンサーは、水槽を眺めている彼女に近づき、あなたには悩みがある、あなたは悲しい目をしている、という意味のことを、何食わぬ顔で言う(村上春樹の小説に出てきそうな嘘寒いセリフだ)。

 つまり、ダンサーは初対面のドロシーに対し、(うさん臭い)カウンセラーのように振る舞うのだが、自らがサイコパスであるにもかかわらず、彼が、ドロシーに対し、カウンセラーもどきのことを抜け抜けと口にするシーンは、ひどく不気味だ。

 むろんダンサーは、ドロシーを誘惑しようとしたのではなく、あくまで人形に隠されたヘロイン目当てで適当なことを言ったのかもしれない。

 だがそれにしても、ダンサーが、心を深く病んでいるにもかかわらず、いやむしろそれゆえに、ドロシーが何らかの悩みを抱えていることを直感的に見抜き、治療者のように振る舞うシーンは、異様な印象を残す(事実、ドロシーはそこで、冷淡な夫との不仲に悩んでいることを、ダンサーに打ち明ける)。

 ダンサーという狡猾なサイコパスの脳内には、他人の心の機微を触知する特殊なセンサーがあるのではないかーーそう考えたくなるような、恐ろしくも興味深いシーンだ(ドロシーが初対面のダンサーの言葉を真に受けてしまうところを、映画特有のご都合主義だというのは簡単だが・・・)。

 その場面で、グロテスクな蛸やウツボの泳ぐ暗い水槽の表面に、ドロシーの姿が白っぽい亡霊のように映る瞬間にも、ハッとさせられるが、彼女の内心の揺れを、いかにもな心理的な演技/顔の芝居ではなく、【鏡像】として表したドン・シーゲル演出の冴えはどうだろう(ちなみに、この水族館の場面は、オーソン・ウェルズ監督のフィルム・ノワール、『上海から来た女』(1947)の、あの巨大な鮫や蛸の泳ぎまわる水槽を背景にした水族館の名シーンへのオマージュ、ないしは創造的借用だと思われる)。

 やがて、ダンサーとジュリアンは、ドロシー親子が宿泊しているホテルの一室に招き入れられるが、彼らが、その凶悪な正体をむき出しにして、人形を手荒く解体してヘロインの包みを取り出そうとするシーンの恐怖も、ただごとではない。見てのお楽しみである。

5 ヤマ場の波状攻撃

 終盤の、やはりスートロ博物館内の、スケート場を見下ろす吹き抜けの階上の展望台のシーンも、息苦しいほどスリリングだ。

 ダンサーはそこで、「ザ・マン」と呼ばれる、車椅子に乗った組織のボス(ボーン・テイラー)と会い、運び屋から回収したヘロインを手渡す。だが、ある偶発事のために、ダンサーの入手したヘロインは、組織に届ける約束の量には何分の一かが不足していた。

 事情を説明して了解を得ようとするダンサーに対し、ボスは無言のまま、冷ややかな視線を向ける。ややあって、その爬虫類のような禿頭の男は、ダンサーに、「お前は死ぬ」と言ってから、ダンサーの手違いを冷徹な口調でなじる。

 しょせんは雇われ者の殺し屋に過ぎないダンサーと、強大な組織をバックに持つ「ザ・マン」との、圧倒的にアンバランスな力関係がきわだつ恐ろしい場面だ。これまた見てのお楽しみである。

 ともかくこのヤマ場では、俯瞰と仰角のカメラアングルを駆使して、【高所】をめぐる身の縮むようなアクションが展開される。

 が、映画はそこで終わらずに、さらに瞠目(どうもく)すべき、ラストのクライマックスに突入する。

 ジャン=リュック・ゴダール監督が言ったとされる、「女と拳銃と車があれば一本の映画ができる」という言葉を地でいくような、いやゴダールが撮りたくて撮れなかった、ハードボイルド(硬質)な、あるいはハードコア(苛烈)な、高速道路上のカーチェィス、仲間割れ、検問突破、銃撃戦、そして【高所】からの人物の転落が、一分(いちぶ)の隙もないスピーディーな編集で連打される(建設中の高速道路は、途中で途切れている!)。

 まさしく、職人的名匠ドン・シーゲルの本領が、いかんなく発揮された凄絶なシーンだ。なお、このクライマックスでも、疾走する車の窓外に、ヒッチコック、ウォルシュらが偏愛したスクリーンプロセスが巧みに使われており、奇妙にシュールな浮遊感を画面に添えている。

【補説】

1
 本作では、ヘロインを仕込んだ人形や置物、あるいはサイレンサー付き拳銃などの小道具/モノが、じつに効果的に使われるが、ヒッチコックはいみじくも、映画においてサスペンスを生む最大の要素のひとつは、生き物であるかのように不気味に撮られたモノだ、と述べている。

2
 上述のように、ドン・シーゲルは、空間の高低差を活用した落下や転落、さらに『ダーティハリー』に顕著なように、高所からの狙撃を好んで描いた。しかし、これをドン・シーゲル独自の作家的特徴と言えるかどうかは、微妙な問題だ。

というのも、【高所】をめぐるアクション演出は、すでにヒッチコックのトレードマークであったからだ。また、先輩監督ウォルシュも、たとえば、ドン・シーゲルが編集助手を務めたギャング映画の古典、『彼奴(きやつ)は顔役だ!』(1939)のラスト近くで、ジェームズ・キャグニーが、かつての戦友だが今は街を牛耳る極悪なボスであるハンフリー・ボガートを拳銃で撃ち殺したあと、ボガートの手下の一人を二階から突き落とし、もう一人に向けて発砲すると、その男は階段を転げ落ちて死ぬ、という高所からの転落シーンを鮮やかに描いている。そしてまた、ウォルシュの傑作『白熱』(1949)では、マザコンのサイコパスで遺伝性の頭痛持ちのギャング、ジェームズ・キャグニーが、巨大なガスタンクの天辺で爆死する。

 さらに、フィルム・ノワール『死の接吻』(ヘンリー・ハサウェイ、1947)では、本作でデビューしたリチャード・ウィドマークの殺し屋が、車椅子の女性を階段から突き落とすショッキングなシーンがある。さらにまた、初代『キングコング』(1933、メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック)のラストで、コングがエンパイア・ステート・ビルから墜落死するラストは、あまりにも有名だ。ーーこれらは1930~40年代のハリウッド古典映画における、【高所】をめぐるアクション描写のほんの一例だが、したがって、ドン・シーゲルにおける【高所】のアクション演出を、彼独自の作家性として性急に一般化すべきではないだろう。

3
 ドン・シーゲルの精神異常(者)への偏愛も、彼独自のものというより、やはりヒッチコック、ウォルシュ、フリッツ・ラング、エドガー・G・ウルマー、ロバート・シオドマク、ロバート・ロッセンら、ニューロティック(精神病理的)映画の名手でもあった先達との影響関係で考えることが先決だろう。なお、ドン・シーゲルとクリント・イーストウッドの師弟関係、協力関係、影響関係については、近々この連載で言及したい。

4
1950年代ドン・シーゲル映画ベスト4 
1 『殺人捜査線』(1958)
2 『第十一号監房の暴動』(1954)
3『殺し屋ネルソン』(1957)
4『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956)
 
ちなみに、ドン・シーゲルが1964年に撮った二人組の殺し屋(リー・マーヴィン、クルー・ギャラガー)の登場する『殺人者たち』は、その原型になったと言われる『殺人捜査線』の切迫した疾走感には欠けるものの、ハイレベルな犯罪映画に仕上がっている。

















 








                   


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