映画評9 キング・ヴィダー『シナラ』(下)

 今回は、「上」「中」で触れられなかった、『シナラ』に関連するいくつかのトピックを「補説」として記したい。

 補説1
 淀川長治は、蓮實重彦、山田宏一との座談(『映画となると話はどこからでも始まる』、勁文社、1985)で、『シナラ』を絶賛しつつ、最初、原文タイトルの「CYNARA」を「サイナラ」と読んでしまい、日本を題材にした映画だと思った、というエピソードを楽しげに語っているが、淀川は同書巻末の「映画ベスト100」で、『シナラ』のほかにもキング・ヴィダー監督の前記1925年版『ステラ・ダラス』(ロナルド・コールマン主演、サイレント)、『涙の船歌』(1918、サイレント)、『ハレルヤ』(1929、オール黒人の音楽映画)を挙げている。
 また同書で、淀川の、キング・ヴィダーの移動撮影が驚異的、という言葉を受けて、山田宏一は、ヴィダーの前記『群衆』(1928、サイレント)や『街の風景』(1931)のクレーン・ショットもすごかった、と応じているが、『シナラ』の映画館のシーンでも、場内の後方から前方へと一気に移動して、大笑いする観客たちをなめていく俯瞰のクレーン・ショットに驚嘆する。
  
 補説2
 『シナラ』の主題である「不倫」は、殺人やレイプや窃盗や詐欺とちがって、その究極的な是非/善悪を問うのが困難な、人類永遠のアポリア/難問である。
 
 だからこそ、『シナラ』を見る者は、あるときはジム/ロナルド・コールマンに恋焦がれるドリス/フィリス・バリーに感情移入し、あるときは葛藤する生真面目なジムに感情移入し、またあるときは聡明で心優しいジムの妻、クレメンシー/ケイ・フランシスに感情移入するのだ。
 
 そうした事情ゆえか、社会学者兼作家の鈴木涼美は、『不倫論 この生きづらい世界で愛について考えるために』(平凡社、2024)において、「不倫」の是非については断言を巧みに避け、「不倫」の心得(!)めいたことをアクロバティックにこう書くーー「・・・結婚パートナーを維持しながら不倫をする資格があるのは、夫婦関係を良好に保ち、その関係を絶対に守り抜くという気概がある人のみであって、夫婦関係の悪さを別の関係によって補おうとする態度は、リスクが高すぎるだけでなく、関係のない人にまで余計な痛みをばら撒き、自分の情けなさを露呈し、修復可能であった夫婦関係を台無しにする愚かな行為だとも言える。いくら甘美なものであっても、不倫は不倫のままにそこに置いておく潔さがなくては、嗜(たしな)みとしての不倫には向かない。」

 それなりに説得力のあるこの主張は、しかし繰り返すが、「不倫」の本質についてではなく、「不倫」を許容する前提にたった上で、「不倫」を成功させるための条件やコツ(!)を教示する言葉である。
 
 また、鈴木はこう述べるーー「・・・昨今の世の中で支配的にまかり通っている、「不倫はダメ」という標語は、そういった状況(上述の、不倫によって夫婦関係を破綻させるケースーーー引用者注)を少なからず予想するからこそ、力強く囁かれるとも言えるわけで、命をかけて夫婦関係を守り、その夫婦の幸福を守り、その上で、甘美な束の間の休息を極上の相手と作り上げることができれば、そのようなつまらない標語をはねつけてしまえる気もする。」

 これもやはり、不倫を楽しむ秘訣(それは至難の技であり苦行に近いものだ)、ないし覚悟を説く、ある種、啓発的で倫理的な(!)言葉であるが、末尾が「気もする」と、断定を避けている点もミソだ。ちなみに『シナラ』が物語るのは、こうした「倫理的」な枠組が壊れてしまったために、悲劇に至る「純愛系の不倫」(鈴木)である(ちなみに、シナラとは、夫婦や恋人の仲を裂くギリシャ神話に登場する邪悪な神だという)。

 補説3
「不倫」映画ベスト40 (製作年順)
1『ウィンダミア夫人の扇』(エルンスト・ルビッチ、1925、サイレント)
2『サンライズ』(F・W・ムルナウ、1927、サイレント)
3『シナラ』(キング・ヴィダー、1932)
4『ボヴァリー夫人』(ジャン・ルノワール、1934)
5『アンナ・カレーニナ』(クレランス・ブラウン、1935)
6『夢を見ましょう』(サッシャ・ギトリ、1936)
7『ゲームの規則』(ジャン・ルノワール、1939)
8『怒りの日』(カール・ドライヤー、1943)
9『深夜の告白』(ビリー・ワイルダー、1944)
10『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(テイ・ガーネット、1946)
11『輪舞』(マックス・オフュルス、1950)
12『旅愁』(ウィリアム・ディターレ、1950)
13『見知らぬ乗客』(アルフレッド・ヒッチコック、1951)
14『たそがれの女心』(マックス・オフュルス、1953)
15『嘆きのテレーズ』(マルセル・カルネ、1953)
16『妻』(成瀬巳喜男、1953)
17『わが望みのすべて』(ダグラス・サーク、1953)
18『近松物語』(溝口健二、1954)
19『ダイヤルMを廻せ』(アルフレッド・ヒッチコック、1954)
20『裸足の伯爵夫人』(ジョゼフ・L・マンキーウィッツ、1954)
21『不安』(ロベルト・ロッセリーニ、1954)
22『いつも明日はある』(ダグラス・サーク、1955、あなたはこの【神品】を見たか!?)
23『早春』(小津安二郎、1956
24『鰯雲』(成瀬巳喜男、1958)
25『妻は告白する』(増村保造、1961)
26『不貞の女』(クロード・シャブロル、1964)
27『柔らかい肌』(フランソワ・トリュフォー、1964)
28『恋人のいる時間』(ジャン=リュック・ゴダール、1964)
29『女の中にいる他人』(成瀬巳喜男、1966)
30『できごと』(ジョゼフ・ロージー、1967)
31『昼顔』(ルイス・ブニュエル、1967)
32『一寸先は闇』(クロード・シャブロル、1971、前記『女の中にいる他人』と同じく、エドワード・アタイヤ「細い線」が原作)
33『ラ・パロマ』(ダニエル・シュミット、1974、奇跡の映画!)
34『隣の女』(フランソワ・トリュフォー、1981)
35『白い婚礼』(ジャン=クロード・ブ
リソー、1989)
36『ホット・スポット』(デニス・ホッパー、1990)
37『レディ・チャタレイ』(パスカル・フェラン、2006)
38『キャロル』(トッド・ヘインズ、2015、女性同士の恋愛映画の大傑作!)
39『女と男の観覧車』(ウディ・アレン、2017、「ユウ・ビロング・トゥ・ミー」、「ハーバーライト」などの挿入歌に酔いしれる)
40『ア・ゴースト・ストーリー』(デヴィッド・ローリー、2017)

番外/▼『卒業』(マイク・ニコルズ、1967: 大した映画ではないが、臈(ろう)たけたアン・バンクロフトの魅力と、『ダーティハリー』の名カメラマン、ブルース・サーティーズの撮影手腕ゆえにピックアップ)
   ▼『ドライブ・マイ・カー』(濱口         竜介、2021、濱口作品では村上春樹の原作とミスマッチした本作より、『寝ても覚めても』(2018)、前記『偶然と想像』(2021)、『ハッピーアワー』(2015)を推したいが、「不倫」映画としてとりあえず)





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