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【映画評】1:黒沢清の傑作『クラウド』

ちょっとした些細なことが取り返しのつかない惨劇を引き起こす恐怖を、黒沢清監督の傑作『Cloudクラウド』(2024)は、大胆かつ細心に描き出す。

----クリーニング工場で働きながら転売屋として日銭を稼ぐ吉井(菅田将暉)は、ある日、自分に対する誹謗中傷がインターネット上に溢れていることを知る。

それは、軌道に乗り始めた彼の転売業に対する悪意ある書き込みだった。 コツコツと転売にいそしむ吉井にとって、そんな投稿の内容はまったく身に覚えがなかったが、やがて彼は、SNS上で集まった互いに見ず知らずの集団/クラウドによる人間狩りの標的になる。

しかしそもそも、吉井の転売業は、偽ブランド品かもしれないバッグなどを、安く仕入れて高く売る危ういビジネスではあれ、詐欺などの違法行為ではない。薄利多売でささやかな利ざやを得る、しがない商売だ。

にもかかわらず吉井は、彼に対して憎悪をつのらせる、猟銃や拳銃を携えた凶悪な集団のターゲットになる(終盤30分強は映画史上屈指の凄絶な銃撃戦!)。この、吉井の行いと彼に向けられる偏執的な悪意/殺意との、いわばアンバランス/非対称なズレこそが、『クラウド』の最も恐ろしい点だ。

ネット上で集まった者らが吉井を襲撃する動機はさまざまだが、そこには奇妙な共通点がある。前述のように、一見どうということもない理由で、彼らは吉井に対して殺意にまで至る怨恨を抱くのである。

たとえば、クリーニング工場の社長・滝本(荒川良々)は、吉井に管理職への昇進を打診するが、それを断り、転売業に専念するため工場を辞めた吉井を執拗に恨む。そしてグループのリーダー役になった滝本は、やがて猟銃を構えて吉井の前に不意に現れる。

ここで注意すべきは、滝本が吉井への恨みをつのらせてグループのリーダーとなる心理的・時間的経緯が、まったく描かれないことだ。滝本は、吉井を慰留するさいに、君の能力を高く買っているという意味の、やや芝居がかった自己啓発本めいたことを言うが、無表情のまま淡々と喋る滝本の様子には、怨恨の影などみじんもない。

もっとも、ただそこにいるだけで何か不気味な坊主頭の荒川良々が、工場の物陰から吉井を見やったり、いつの間にか吉井のアパートに近づいた彼が吉井の部屋を窓越しに見上げたりする視線は薄気味悪いが、これもまた、心理描写ではなく、もっぱら画面のインパクトのみで強度のサスペンスを表す黒沢清ならではの描法だ。

ちなみに、或る人物が【いつの間にかそこにいる】、というショットは、アルフレッド・ヒッチコック、ドン・シーゲル、クリント・イーストウッドといった映画作家の得意技でもあるが、それらの不意打ちショットでは、むろん【時間】が大胆に省略されている)。

ともかく、猟銃を構えて吉井の前に出現する滝本に、観客は不意を突かれるのであり、この何を考えているのかわからない男が、吉井をそこまで強く恨んでいたことに驚くのだ(じつは滝本は、妻と二人の子供を殺害した凶悪犯だった)。

吉井の専門学校時代の先輩、村岡(窪田正孝)も転売屋だったが、吉井が自分より稼ぐようになったことや、吉井に秋子(古川琴音)という恋人がいること、さらに吉井が自分を見下すような態度をかすかに見せたことに、妬みを抱く。

しかし、村岡も、うだつの上がらない鬱屈した陰気な男ではあれ、滝本のグループに加わった彼がいきなり吉井に発砲する瞬間、観客は彼の嫉妬の根深さを知り、虚を突かれるのだ。

そのほか、吉井に電子治療器を安く買い叩かれたことで吉井を恨む、町工場の社長・殿山(赤堀雅秋)も滝本の銃撃グループに加わる。

また、吉井のハンドルネーム「ラーテル」に関するネット上の書き込みを見て、吉井への敵意をエスカレートさせる、ネットカフェの住人のマスク男・三宅(岡山天音)や、矢部(吉岡睦雄)、井上(三河悠冴)らも、村岡や殿山よりさらに取るに足らない理由で、グループに参加する。

----このように『クラウド』は、ほんの些細なことが過激な暴力へと至るプロセスを、息詰まるガンアクションをヤマ場に据えて描破した稀有な映画である。

なお本作に関して、吉井の転売業の日々や彼の転売に対するネット上の誹謗中傷を中心に進む「前半」と、もっぱら銃撃戦がハードに展開される「後半」とが別々の2本の映画のように断絶、ないし分裂している、という感想がネット上で散見されるが、それは端的に言って的外れだ。

というのも、以上で述べたように、滝本らの怨恨はあくまで、転売でたかだか小銭を稼いでいるだけの吉井に対して、アンバランス/非対称な形で膨れ上がり、吉井を標的にする人間狩りにまで至るのだから、この映画には「前半」も「後半」もなく、全体として見れば、一つながりの起承転結があるのだ。物語における因果関係に、いくつかの空白/謎や飛躍が仕掛けられているにせよ、である。

ところで、終盤の銃撃戦をリアルに成立させているキーパーソンが、吉井にアシスタントとして雇われた地元の若者、佐野(奥平大兼)である。

一見どこにでもいそうな青年だが、じつは或る秘密組織との接点もある佐野は、プロのヒットマンであり、吉井の頼もしい相棒、かつ強力な助っ人となる。

吉井に銃の撃ち方を教える佐野はまた、転売業でも非凡な才を発揮する知恵者だが、むろん彼は正義や法や善の側の人間ではなく、契約者・吉井をさらにいっそう禍々しい魔界へと誘い込む、メフィストフェレス的な存在にほかならない。

それはラストの、黒沢清のトレードマークの一つである、赤茶色の雲(クラウド!)の群がる夕空を浮遊するワゴン車のシーンに、はっきりと示されている。見てのお楽しみだが、佐野という謎の人物の、荒唐無稽すれすれの設定には、にもかかわらず、強い訴求力がある。

ちなみに、佐野の助力を得て反撃に転ずるまでの吉井、というか菅田将暉は、微妙なニュアンスでしか感情を表さない、抑制された【受け】の芝居----心の動きが読みにくい---に徹していて見事だ。

これは、もっぱら滝本らの理不尽な攻撃にさらされる、吉井の受け身のシチュエーションに見合った演技であるだけでなく、黒沢清の映画に通低する、ニュートラルで低体温のトーンのうちに得体の知れぬ不穏さを醸すルック/画調と完ぺきにシンクロしたパフォーマンスである。

【補説】
1
谷崎潤一郎の『痴人の愛』の強欲で奔放なヒロイン、ナオミを黒沢ナイズしたようなファム・ファタール(悪女)、秋子/古川琴音の存在感にも目を見張るが、秋子もまた、心の動きが読めない黒沢清的悪党の典型例だ。

2
『クラウド』では、或る人物の登場→退場→再登場によって、ドラマが思いがけない方向に転がる。これは黒沢清が何度も書き直したという、オリジナル脚本の緻密な構成を如実に示すものだが、【再登場】は、滝本の例に顕著なように、しばしば【不意の出現】というかたちを取る。

3
ガンアクションの前段として、さまざまな凶兆が巧みに描かれるが、それはたとえば、吉井のアパートの階段の隅に置かれた、紙に包まれたネズミの死骸や、吉井が秋子と暮らし始めた湖畔の一軒家(自宅兼事務所)の窓ガラスが、投げ込まれた車の部品によって割られる瞬間、あるいは、すりガラス越しにマスクを付けた男/三宅がぬっと現れる瞬間、吉井の周囲をよぎる何者かの黒い影、さらに或る夜、バイクを走らせる吉井の前方にワイヤーが張られており、あわや・・・という瞬間などの、ぞっとするようなディテールだ。

4
ガンアクションの舞台となる廃工場や吉井のアパート、あるいは彼が移り住む湖畔の一軒家は、むろん、黒沢映画に一貫して登場する殺風景すれすれの廃墟的空間だが、しかし、そのがらんとした佇まいは、窓外のくすんだような白色光によって生まれる逆光ぎみのビジュアルとあいまって、なんとも目に快い。

5
ガンアクションの場面では、たとえば『ダイ・ハード』(ジョン・マクティアナン、1988 )のように、おびただしい銃弾が花火大会のように飛び交うわけではないが、放たれる一発、一発の弾丸が腹にこたえるようなショックをもたらす(被弾した者が、衝撃で後方に大きくふっ飛んだり、身をのけぞらせてからガックリとうずくまる瞬間には、黒沢清の銃撃戦への強いこだわりが感じられる。サム・ペキンパーの映画でさえお目にかかれなかった苛烈なガンアクションだ。

6
ラストの、ワゴン車の背景に群がる赤茶色の雲は、本作とはジャンルも作風もまったく異なる、1958年に撮られた一本の映画を連想させる。メロドラマの名匠・成瀬巳喜男の『鰯雲(いわしぐも)』である。Summerdaysclaudsという英語タイトルを持つこの傑作は、戦後の東京近郊の農村が舞台だが、戦争未亡人(淡島千景)の不倫や彼女の姪(水野久美)の大学進学や中絶などをめぐる世代間の価値観の相違が描かれ、均分相続、農地改革などにも言及される必見作である。が、とりあえずここで注目したいのは、タイトルどおり、冒頭とラストでワイドスクリーンいっぱいに映し出される-----『クラウド』のラストの雲をより鮮やかに発色させたような-----官能的な紅色に染まった漣(さざなみ)状の鰯雲だ。それを目にする者は、『クラウド』の着想源はこれだと、直感的に確信する。なお、『鰯雲』は成瀬の初カラーにして初のワイドスクリーン(シネマスコープ)で撮られた作品だが、淡島と不倫相手の木村功が乗るバスの窓外の光景は、黒沢清も偏愛するスクリーンプロセスである。












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