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【映画評】2:黒沢清の傑作『Chime』

中編映画『Chime』(2024)は、黒沢清のエッセンスが45分間に凝縮されたような傑作だが、描かれるのは、料理教室の講師・松岡(吉岡睦雄)が見舞われる災厄の一連である(以下、ネタバレあり)。

-----ある日、松岡のレッスン中に、生徒の一人・田代(小日向星一)が、突然、「頭の中でチャイムが鳴って、誰かがメッセージを送ってきている」と、言い出す。

松岡はそれに取り合わず、田代に、淡々とした口調で粗みじんについてアドバイスし、まあ楽しくやりましょう、と言う。すると田代は、楽しくて料理なんかやってるんじゃない、と返す。

この田代の返答に、観客はハッとする。むろんそれが、相手とのコミュニケーションをハナから拒絶するような物言いだからだ。が、松岡は表情を変えずに、田代の言葉をやり過ごす。

そして別の日、田代はレッスン中に、「僕の脳の半分は入れ替えられていて、機械なんです」と言ったなり、包丁で自分の首を突き刺して絶命する。生徒たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、松岡はショックでその場にへたり込んでしまう(観客も、「なぜ」と問う間もなく、眼前で起きている事態に見入るばかりだ)

カメラはそこで、田代にあまり寄らずに、その背後から、斜めに構えた包丁を首に突き刺す彼を、全身ショットでとらえる。

いかにも黒沢清らしい、被写体と絶妙な距離を取るカメラワークだが、しかもこのシーンは、あっという間に終わる。

結果、スクリーンには、肌が粟立つような戦慄と、あっけないほどの簡潔さとが、同時に生まれる。ゆえに観客はそこで、恐怖と映画的快とを同時に味わう。というかむしろ、恐怖そのものを、映画的快として味わう。

つまるところ、田代の驚愕の行動を、それ以上血なまぐさく残酷に、かつ長々と説明的に描いてしまえば、昨今の残虐ホラー----たとえば『エスター』(ジャウム・コレット=セラ、2009)など-----のように、かえってフィルムは熱量を失ってしまうことを、黒沢清は熟知しているのだ。

ちなみに、ジャンルを問わず、思い切り感情を込めて目をクリクリさせる役者の顔のクローズアップなどの【表現の過剰さ】こそが、今日の映画の質の低下を招いた元凶だ。

さて、その数日後、第二の事件が、やはり料理教室で起こる。

-----生徒は、天野はな扮する菱田という若い女一人きりで、彼女の前には、首のない太った裸の人間にも似た、生白い丸鶏が置かれているが、松岡は田代の死のショックから立ち直ったのか、落ち着いた様子でレッスンをしている。

と、菱田は、やや唐突に、丸鶏が気持ち悪くて調理したくない、と言い出す。では切らなくてもいい、と松岡が返すと、菱田は、なぜこんな気持ち悪いモノを調理するのか、その理由を教えてくれ、自分は理屈で説明してもらわないと納得できないタチだ、とか何とか言いつのる。

田代の物言いと同じく、答えようのない、最初から相手/他者とのコミュニケーションを拒絶しているような、しかし観客の快痛点に触れてくる、不穏な言葉だ(黒沢清のオリジナル脚本ではしばしば、こうした奇っ怪なセリフが冴えわたる)。

この菱田の言葉に対する松岡のリアクションは-----いやそれは伏せておこう。ともかくそこで、松岡はいかなる感情も示さず、恐るべき(リ)アクションを起こす。

つまり、田代の事件のときとは異なり、今度は松岡自らが行為の主体となるのだが、松岡と菱田とを、やはり引きのカメラが、画面の奥を生かした縦の構図、および切れのいいカット割りで、見事にとらえる。

そして見逃せないのが、田代と菱田の、唐突に(つまり前触れも伏線もなく)発せられる奇矯な言葉こそが、それぞれの事件のきっかけになる、という作劇の妙だ。

とりわけ、短編ないし中編映画では、こうした、見る者を面食らわせるセリフとアクションが、きわめて効果的だが、ただしこれは、誰にも真似できない、黒沢清ならではの描法である。

いまひとつ興味深いのは、松岡が、田代や菱田とはちがった形で、他者とのコミュニケーションがまったく取れない人物として登場するカフェの場面だ。

それは松岡が、フランス料理店のシェフの採用面接を受けるシーンである。

-----面接官に対して松岡は、自分がいかに料理の才能に恵まれているかを滔々(とうとう)と喋り、さらに、料理教室の講師なんかに甘んじているのは本意ではない、シェフという地位はまったくもって自分に値するポジションだ、といった意味のことを、饒舌にアピールする。

面接官がかすかに怪訝(けげん)そうな表情を浮かべていることには一切お構いなしに、である。

これはもはや、空気が読めないとか、自信過剰とか、独りよがりとかいったレベルではない、おそらく自意識があらぬ方向へねじ曲がってしまった結果の、ひどくグロテスクな饒舌だ。

そして観客は、ハラハラドキドキしながらも、この頓狂な場面から目が離せなくなる(そこでは松岡/吉岡睦雄の、抑揚がないのに変に甲高い、しゃがれたような声がひときわ印象的だ)。

そして案の定、面接官は、松岡さん、どうか料理教室の先生をお続けくださいと、やや慇懃無礼な口調で言うなり、そそくさと席を立つが、立身の望みを絶たれた松岡は、放心したような、しかし何の感情も読み取れない無表情のまま、その場を動かない。

と、そのとき、店の中である異変が起こるが、それは見てのお楽しみ(私はこの採用面接のシーンが、作中でいちばん怖かったが、それにしても、テレビドラマなどではついぞお目にかかれない、異様なほどリアル、かつ巧みな人間描写だ)。

カメラはこのシーンでも、松岡の顔のクローズアップぎみの短いショットを混ぜつつ、基本、引いた距離で人物たちを撮るが、とりわけ、カフェの外から店内で向き合う松岡と面接官とを、窓ガラス越しにとらえるロングショットが卓抜だ。

ところで、映画の後半で描かれる松岡の家庭の様子も、何かがおかしい。もはや家族間のコミュニケーションは途絶えているらしく、妻(田畑智子)は食事の途中でいきなり立ち上がり、ゴミ袋に詰め込んだ大量の空き缶を中庭に持ち出し、リサイクルボックスにぶちまけたかと思うと、何かに取り憑かれたように、それらを執拗に踏みつぶす(ギリギリギリと不快な音が響くが、それは田代を見舞った幻聴(?)=チャイムを連想させる)。

それにしても、無表情なのに恐ろしい形相の田畑智子が、なんらかの精神の失調を、もっぱらアクションの連続で演じるさまは凄い。

松岡の高校生の息子はといえば、父親に、儲け話に誘われたから二十万貸してくれ、とむっつり顔で言い、断られると、無言のまま二階へ上がってしまう。

---このように松岡の家族は、もはや家族として機能しておらず、そのことも松岡に強い圧/ストレスを与えているのでは・・・と、観客はそれまでに松岡の身に起こった出来事の一連と、彼の家庭の状況とを因果的に結びつけて考えようとするが、むろん、映画は何も答えてくれない。あくまで、謎は謎のまま放置される。

そして、ラストの松岡の帰宅シーンで鳴り響く、耳がひん曲がるような怪音(チャイム!)。田代が松岡に感染させた(?)あの音/メッセージを、映画館で再び聴きたいと思う。

【補説】

1:『Chime』では前述のように、物語的な理由づけ、あるいは人物の言動の心理的な動機づけ、つまり【なぜ】が、大胆に省略されていて、不意打ち的にアクションが起こり、セリフが発せられる。物語の脈絡/因果関係は、説明されぬ形で暗示されるだけだ。

ゆえに観客は、「正解」に行き着けぬまま、意味と無意味のあわいに、宙吊りにされるほかない。それが『Chime』の、ひいては黒沢映画の「法則」だからである。

もっとも『Chime』は、黒沢作品の中でも【なぜ】の欠如が極端に表れたフィルムではあるが。なお黒沢映画の物語における因果関係の異形さについては、拙論「映画は千の目を持つ/黒沢清論」-----『黒沢清・誘惑するシネマ』(慶應義塾大学アート・センター刊、2001)所収-----で詳述したので、そちらも参照していただければ幸いである。ちなみに、「宙吊り」は、英語で【サスペンス】と言う。

2:本作でも、黒沢清のトレードマークの一つである【幽霊】が現れる。いや正確に言えば、幽霊の出現が暗示される。

-----その場面が興味をそそるのは、ある人物の幽霊を目撃するのが、「正気」の側にいる料理教室の女性スタッフであり、幽霊(となった人物)と深く関わった者の目にはそれが見えない、ということである。

だとするなら、「正気」の側にいる人物が幽霊を目撃することで、幽霊の存在は証明されたのではないか。

3:松岡の家庭を写す場面の冒頭は、テーブルを囲んで黙々と食事をする家族三人を、やはりロングに引いたカメラがとらえたショットだが、そのワンショットのみで、この家族の機能不全ぶりを簡潔に示すスキルの冴え!

4:幽霊の登場する黒沢映画ベスト・・・(製作年順)

●『DOORⅢ』(1996)

●『廃校奇談』(1997、テレビ作品、「学校の怪談f」第3話)

●『蜘蛛の瞳』(1997)

●『回路』(2000)

●『アカルイミライ』(2003)

●『叫』(2005)

●『岸辺の旅』(2015)




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