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「自分の化けの皮を剥いでいく作業ですから」

”曲を作るというのは自分の化けの皮を剥いでいく作業だ”と、どこかの音楽番組でエレファントカシマシの宮本浩次が語っていた。
化けの皮を剥ぐとはどういう意味だろう。番組内では深く言及されなかったが、当時の私には”皮を剥げば必ず果肉が出てくる”というような自信家の発言に思えて、”この人は自分がオモロい人間だと信じて疑わない人なんだなァ”と聞き流していた。この言葉を思い出したのは、私のライフワークである”絵を描く”ことが行き詰まりはじめてからだと思う。

絵を描くのは小さい頃から好きだった。趣味ではあるが、大学では美術を専攻し、社会人になっても私塾に通って勉強しなおす程度にはこの趣味を大事にしてきた。しかし、大きな顔でこんな話を書くのが恥ずかしくなるほど、これまでに描き上げた作品は少ない。ファンアートや内輪向けの作品は比較的コンスタントに描けているものの、自分で1から考えたオリジナルの絵に関しては2ヶ月に1枚描ければ良いほうだ。筆が遅い理由は明確で、私には”描きたいものが何もない”のだ。
絵を描くのが好きなのに描きたいものがないというのは、一見矛盾しているように見えるかもしれない。説明を補足するなら、絵を描く人の多くは、例えば廃墟だとか、猫だとか、青色だとか、セーラー服の女の子だとか、少なからず好きなモチーフがある気がしている。あるいは”誰それみたいな絵が描きたい”という理想形。そういうものが私にはほとんどない。熟考してみれば実はあるのかもしれないが、自覚できるものは何もない。ただ、食事やお洒落のようなライフワークとして、2歳から筆を握ることを続けてここまで来ている。絵具の香り、美術館、新しい画材が発売されて日に日に拡張される絵画の技法、そういうものが間違いなく大好きで、絵を描くことを辞める気はないという意思だけが確かである。そして、ここまでの大口を叩きながら生産性が伴っていないのが現状だ。

社会人になってから画塾に通い始めたのも”自分が描きたい絵”を見つけるためだった。課題解決に繋がりそうなコースを選んだが、今のところは既に自覚している課題に直面するばかりだ。最初の授業は「自分を構成する要素をリストアップしてみましょう」。好きなもの、影響を受けたもの、幼少期に見ていたもの…それらを並べてみれば、そこから貴方の個性が見つかります。先生にそう言われて私はこの授業を取れば私の個性、”私の絵”が見つかると確信して嬉々として筆を走らせた。筆はすぐ止まった。紙には好きな食べ物、好きな音楽、あとはどこの学校に行っただとか履歴書のような情報だけが羅列されていた。絵に繋がる要素は一つもなかった。
ただ、その授業で気づいた事もあった。考えてみれば当たり前だけれど、自分が描きたいと思えるものは、自分が今まで好いてきたものや記憶や経験の中にしかない。好きなモチーフも影響を受けたものもピンと来るものがなかったのは、私が私自身に履歴書以上の興味がなく、己の思想と向き合って来なかったことにも起因するだろう。”自分が何を描けば気持ちが良いのか”という疑問に否が応でも答えを出そうとした時、必要なのはまず自分を知るというプロセスで、正に”自分の皮を剥いでいく”作業なのかもしれない。

”描きたいものがわからない”という課題については信頼出来る友人にも話してみた。友人は「珍しい悩みですねえ」とどこか感心したように言いながら、「日記書いてみたらどうですか」と提案してくれた。なるほど、今の自分では自分自身の考えに自信が持てないが、日記として文字に起こせば輪郭のぼんやりした思考を整理できるかもしれない。そういうわけで、自分の思考を整理すべく、延いては自分の描きたいものを具現化すべくnoteを書くに至っている。
日記には、純粋にその日思ったことを書いたり、自分を構成しているであろう昔の記憶を書いていこうと思う。思考や記憶を文字にすることで自分の考えを可視化し、最終的に自分の描きたいものを見つける糸口になるのではないかという試みである。

「私は化けの皮を剥いだところで何の実も出てこないキャベツみたいな人間なんだろうな」と、本当は薄々気づいている。それでも”良い絵が描けたなあ、これなら誰に何を言われても怖いものなどありませんぞ”という個人的な満足感が得られる可能性が少しでもあるのなら、この日記を続けてみたいと思う。

”自分の思想や記憶について、知らない人に公開出来るくらいに明確に可視化する”という制約は大きな意味を持っていると思っています。そういうわけなので、どうかお付き合いただけると幸甚です。


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