心あたたまる一言
赤ちゃんは、手で覆われて見えなかった母親の顔が「いないいないばあっ!」の合図とともに現れるだけで、けらけら笑ったりする。すこし大きくなってきたら、抱っこした子どもの腰をしっかりと両腕で抱え込み、ぶらーんと子どもの頭を垂れ下げて逆立ち状態をつくってあげたりすると、うひゃうひゃ笑って喜び「もう一回やって」攻撃をくらったりする。良かれと思ってやったこちらがへとへとになり、けっきょく後悔することになりかねない。
子どもはまだ知らないことがいっぱい。経験が少なく、先を予測することが難しいわけだから、あれもこれも刺激的でおもしろいのも頷ける。
小学生だったころの甥っ子が私にやってほしがった遊びは「勝手に物語」ごっこ。自分が言った一行に対し、相手が勝手なストーリーを一行足す。それを繰り返して口頭で即興物語をつくる。甥っ子が考えるのに疲れてくると、おばちゃんが最初から最後まで勝手に物語を作って聞かせて、となる。こちらも話している間に支離滅裂になっていくのだが、甥っ子はいつも最後まで、ただ素直に聞いてくれていた。おかしいだろ、なんて突っ込んだりしないのだ。
大人になったって、無知な私はあれもこれも新鮮に感じたりするけれど、それはある年齢あたりから恥とされはじめる。
あんなことも知らないの?こんなこともできないの?常識がないね。そんな評価になってくる。それは、年齢に対して経験が不足していると判断されるからなのだろうけれど、経験てみんな同じスピードや濃度で得られるものじゃないでしょ。だから、まあ、ゆっくり生きるとして。
先日、友達と会ったとき、カラカランと音がしたので手元をみたら、缶のケースに入ったミントのタブレットを持っていた。子どものころ、缶入りドロップがカランコロンと音をたてると胸がときめいたけれど、この時もそんな気持ちになって、ついつい「ちょうだい」と、手のひらを差し出しておねだりをした。ころころんとタブレットが三粒出てきた。「こんなにいっぺんに食べたら辛くないかなぁ?」と聞くと「平気だよ」とかなんとか返し、その友達も自分の手にタブレットを出した。やはり三粒出てきて、それで最後。空っぽになってしまった。「あっ、ぜんぶなくなっちゃったね、ごめん!」と謝ると、友達が「いいよ、いいよ。はんぶんこで、みっつずつ」と答えた。
「はんぶんこで、みっつずつ」
なんだか、とってもよくないですか?この言葉。大人になったからこそ、あたたかく感じられるのだろうな。だって、はんぶんこしてあげるばかりで、してもらうことって減るから。
素敵なプレゼントも、豪華な景品も「はんぶんこ」には、ぜったいに勝てないなぁと、やたら心に沁みた一言だった。