生産性のない話をしよう
こんばんは。
悩みって尽きませんよね。
誰かと話して家に帰って脳内反省会をして、あぁ、あの言葉いらなかったな。とか、もし善意で言ったことをこうやって捉えていたら傷ついてしまっているかも。
とか
不本意ながらそういう性質の人間は僕も含めてたくさんいると思います。
逆に、誰かのさりげない一言が自分の行動に影響してるなんてこともザラにあります。
それが親しい人ならばまだ許容できるのですが、SNSのどこの誰かも分からない人の本質っぽい言葉に縛られてしまうこともあります。
例えば、先日こんなことがありました。
秋も深まってきたここ最近。窓を開け放ったまま朝まで寝ていたのですが、外から通学する子どもたちの声で目が覚めました。
以上です。
これを聞いて、
「で、だから何?」って思いますよね。
いや、普通は思うと思います。
でも、この断片的な日常に結論を求められても「なんか良かったんだよね〜。」で終わりです。
いわゆる、生産性のない話題なのかもしれないです。
でも、そもそも生産性って絶対に必要?と僕は強く思います。
この子どもたちの声で目覚めたことを話してみると、多くの人はそこに「答え」を求めます。
そんなことをとあるSNSに書いた日には、自称専門家が引用して
「科学的に子どもの声でおきることは〜」
とか
「これ、マジでQOL爆上がりなんよな〜」
とか言い出して、
それっぽい分析で一般論にしてきます。
俺の人生の一部を一般化するな!
誰だお前!!!!!
と思います。
実際はされてもいないのに腹が立ってきました。
というか、「なんよな〜」に無性に腹が立ってきました。
あれ、なんなんですか?
まぁ、ね。
そんなことはいいんですよ。
問題はそこじゃないです。
こうやって、現象を傾向別で分類するのが幸せだったらそれはそれで良いと思うんです。
ただ、この「で、だから何?」の問いかけが悩みのタネになりかねないと思うという話です。
白黒はっきりつける。と言い換えても良いと思うんですけど、
全ての事象に二元論を持ち込むとそりゃ苦しいですよ。
だって、
良い悪い、好き嫌い、うるさい静か。
これらの間には紛れもなく
「どっちでもない。」
があるはずです。
もっと物事はグラデーションだと思うんです。
日本人がアンケートに答える時、「やや〇〇」とか「どちらでもない」に票が集まりやすいってよく言われますけど、
中途半端上等。
だと僕は思います。
例えばね
さっきの「子どもの声で起きたこと」についても気分が良いか悪いかで言えば「やや良かった。」だけど、
ちょっとうるさいなともぶっちゃけ思ったし。笑
だからと言って、子どもの遊ぶ声でストレスが溜まるわけでもないし、むしろたくさん大声出して遊ぶべきだと思っているし。
別に僕の中でもはっきりはしてないんですよ。
これをもっと型にはめていくと
「環境音」という括りの中に入れて、なんてことのない断片的な日常が途端に「議題」になって、賛否が生まれるんですよ。
別にそんなの望んでないし。
そういう話じゃなくて、そういうことがあったよ、それをあなたに話したかっただけだよ、あるいは共有したかっただけだよ。
ていうだけなんですよ。
それだけなのに
「分別」は日々至る所で行われています。
それが進みすぎると、究極の生きるか死ぬかという選択に迫られちゃったりもするわけです。
特に人が「感じること」についてはより慎重になるべきだと思います。
誰かの感じたことに他人が答えを出さない、判断をしない。
ものすんごく難しいんですけどね。
あとは、自分で自分に白黒つけてしまうのもまた苦しいです。
こう思ってしまった私は悪いんだ。
なんて醜いんだ。
そういう考えが、「ただ、ある。」それだけなはずなのに
「で、だから何?」が襲ってきがちです。
まぁ一方で
日々の生活で、特に仕事なんか答えを求められると思います。それはある程度許容しなきゃいけないかもしれない。
でも、少なくとも友だちとの会話で
「で、だから何?」
を使いすぎないように気をつけたいなと思います。
なので、結論もロマンもない、でもなんか共有したいな〜ってことをたくさん聞かせてください。
「いつも顔洗う時7回水を掬うんだけど、昨日は5回にしたんだよね。」
「スーパーに白菜なかったけど、キャベツはあった。」
「最近犬派に寝返った。」
なんでも良いんです。
どうでもよくてどうでもよくないことをたくさん話したい。
何も生産しない会話があっても良いじゃん。
それを自分に話してくれたってだけでなんか嬉しいよね。
今日は以上です。
またね〜。