話したければ話しなよ、聞かないけど。
だいぶお久しぶりです。
更新止まりまくっています。
マジすみません。
深夜の勢いに乗せて、つらつらとまた今日も書いていきます。
というのも
ここ数ヶ月ものすごく自分の状況が変わってきて、整理に時間がかかっていました。
以前までその変化に怒りや憎しみを抱いていましたが、どうやら最近は少しずつその熱情が衰えているようです。
熱がないと人は怒れない。
という良い学びを得ました。
そして未来への考え方が大きく変わった気がします。
ここでは具体的には書けませんが、見通しがはっきりしました。
良い意味でも悪い意味でも。
病んでいるわけでもないし、怒ってもいない、だけど悟ってもないという
僕の人生史上最も謎な感情が最近爆誕しました。
まあ抽象的過ぎてなんのこっちゃわからん文章になりそうなので、もうすこし視点を生活に近づけていきます。
今日は
自分が苦しい時に話を聞いてくれる友人がいるかどうか、というお話です。
いや、そりゃいるだろって人といないかもなぁっていう人で分かれそうですが
僕はいます。
が、
本当にそうか?とも思います。
(※僕の周りの人たちが冷たいわけでは決してありません。)
このあたりの言語化、めちゃくちゃ難しいのですが挑んでみます。
例えば、先日「Summer of 85」という映画と「転校生」という映画を観た時にかなり似通った価値観(セリフ)がありました。
どちらも愛と喪失を描いているというざっくりな共通点はさておき
どちらの映画にも超要約すると
「あなたは自分の理想の姿を相手に押し付けている。」
というようなセリフが出てきます。
同日に観た全く違う映画に同じようなセリフが出てきて震えました。
それと同時に、最近考えていた「自と他の関係性」に、ある意味決着がついたような気もしました。
私が見ている世界において、私が勝手に他人に役割を与えているのではないか。
という気づきです。
超利己的ですが、いち生物として自分の生存が第一優先だと思います。「生存」は物理的な死から遠ざかることももちろんそうだし、これがないと精神が死んでしまうということを指すことにします。
この利己的な「生存」のために他人の他者性を犠牲にしていないか、という思いです。
つまり、自分の心を守るために他人を見下していないか、あるいは自分の考えを補強するために他人を利用していないか。
と最近感じるのです。
でも、究極的にその行為は自分にとって正しいとも思います。
今まで散々素敵な言葉があってそれを伝えたいとか、周りの人に嫌われたくないとか、言ってきましたが、ここにきて
いや、待てよ。一旦自分を大事にしないとダメかもな。
と考えを変え始めています。
少し話を戻します。
最初に書いた「自分が苦しい時に話を聞いてくれる友人はいるか」という問いに対して、僕が全開でyesと言えないのは、やっと自分の「生存」に目を向け始めたからだと思います。
僕にとっての「生存」は、
楽しく人生を生きること。
これに尽きます。
めちゃくちゃ抽象的だけど、あえて具体的にするなら、
公園で遊んでいる子どもみたいに生きたいです。
泥んこになって、ブランコ漕いで、脇に咲いている花も雑草も全部新鮮に受け止めたい。時間にも他人にも縛られずに。
そう思っています。
わかりやすくいうと、宮沢賢治の「アメニモマケズ」に出てくる人物とは正反対です。
こうやって書くと情けないですね。
雨にも負けるし、風にも負けるし、めちゃくちゃ怒るし、褒められたいし、
わがままおじさんの完成です。
清貧に対して、汚贅です。
いや、
そんな人に私はなりたくない。
めちゃくちゃ冷静になってきました。
でも、少し前の自分って、ともするとこの「アメニモマケズ」精神を持っていました。
大変烏滸がましいのですが。
自分のことは後回しだったと思います。
そこに見返りを求めていなかったのかと言われると多分求めていたと今は冷静に思います。
ここが「アメニモマケズ」とは大きく違いますね。
その見返りが、「自分も苦しい時にあなたが助けてくれるよね?」というある種メンヘラ的な考えだったと思います。
でも、その見返り、言い換えれば「期待」は脆く崩れ去ります。
これは僕が相手に「理想の姿」を押し付けていたからだと今になってわかります。
今なら断言できます。
そんなもんはない。幻だと。
そもそも誰かの助けになっている、とこちらが判断してしまうことすら押し付けですし。
僕の行為が相手にどんな影響を与えていたのか、それは相手のみが知っていることです。
つまり、僕が苦しい時に助けてくれるかもしれない友人が本当に助けてくれるかどうかはその時にならないと分からない。
というのが今の僕の答えです。
(まるでシュレディンガーの猫)
だから、つまり、甘えんなよ俺。
ということです。
つらつらと色々書きましたが、別に落ち込んでませんし、人生って一生勉強なんだなと思っています。
ただ、ここからずるいことを言わせてもらいますが、
自分の生存のために誰かを傷つける人間になりたいわけではない。
と、書き足しておきます。
自分が第一優先だとしても、他者への思いは変わりません。
行為の順番が変わっただけです。
しかし、誰かを助けたいとは言いません。
僕との会話が助けになるか分かりませんが、助けになることを「願っては」います。