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話したいというより聞きたい


そもそも対話は、お互いに「対話しよう」、という気持ちがないとできない。そして、夫婦の対話というものは、きっと交渉でも説得でも審判でもない。ただ相手を知りたい、相手の考えや思いを知りたい、できたら自分のことも知ってほしい、そういうものなのだ。たぶん。

また、来世まで持っていきたい知恵を獲得してしまった。

この記事を読んだら、鷲田清一さんの『対話の可能性』を思い出した。
「序」。

理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったとき、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解しえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。

おやすみなさい。


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