【小説】それゆけ!山川製作所 (#22 バジルソース③)

目を覚ますと、そこは映ったのは見たことのない天井だった。

(ここは……)

独特な匂いが鼻につく。
この匂いは小さな頃に何度か嗅いだことのある匂いだ。

不意に幼き日の記憶が蘇った。

熱を出してしまった俺は、不安そうな表情を浮かべる母親と共に、地元の小児科クリニックを訪れている。

(そうか、ここは……)

しばらく両親と顔を合わせていないなと、どこか場違いなことを考えながらも、俺はここが病院であることを理解した。


「……!須藤君!大丈夫か!?」

「桐山係長……?」


目を開けるとすぐに、聞き覚えのある声が聞こえていくる。
首だけを傾け確認すると、そこには直属の上司である桐山係長が座っていた。
あの日の母親と同じく、係長は不安そうな表情を浮かべて俺の顔を覗き込んでくる。

「あの、いったい何が……?」

「まだ寝ていなさい。……すいません、802号室です。彼が目を覚ましました」

係長は起き上がろうとする俺を制すと、ナースコールでどこかに連絡を取っている。
なんだか、ドラマのワンシーンのようだな……。

「とにかく、先生に診てもらおう。話はそれからだよ」

「え、ええ。承知しました……」

どうやら俺は、病院に運ばれ、しばらくの間眠っていたらしい。




先生と話すことで大分状況がわかってきた。

どうやら俺は3日前に自宅で倒れているところを発見され、この病院に搬送されたということだ。
そして、その倒れた原因というのが栄養失調。
詳細は割愛するが、倒れた俺を検査したところ、極端に高い数値と極端に低い数値が検出されたらしい。
それは、日常生活に支障をきたすほどアンバランスだったそうだ。

数日間の点滴により、すでに過度な偏りは解消されている。
今日1日様子を見て特に異常がなければ、退院して良いらしい。
とにかく、大きな病気でなくてホッとしたな。



診断が終わり病室に戻ってくると、まだ桐山係長が残ってくださっていた。
今日は平日。係長にも溜まっている仕事があるはず。
申し訳なく思った俺は、迷惑をおかけした謝罪と自身の体調がすでに回復している旨を伝えようとする。

しかし先に口を開いたのは、どこか思いつめたような表情を浮かべた桐山係長だった。

「須藤君……。今回の件は、大変申し訳なかった!」

「……え?い、いや何をおっしゃるのですか」

桐山係長の突然の謝罪に俺は驚く。

どう考えたって迷惑をかけているのは俺の方だ。
桐山係長が謝る理由なんて何1つない。

それに、自宅で倒れている俺を発見してくれたもの、桐山係長だったらしい。
無断欠勤が続く俺の様子を確認しようと家まで来たところ、全く反応のないことを不審に思い、大家さんから鍵を借りて突入してくれたとのことだ。
発見が遅れていれば俺はどうなっていたかわからない。
また、病院に運ばれた後も、係長は毎日病室へと足を運んでくれたようだった。

こちらとしては感謝しかないのだが……。

困惑した俺を見て係長は小さく息を吐くと、ぽつりぽつりと話し始める。


「ここ最近、君の様子がおかしかったことには気づいていたんだ」

「……私の様子ですか?」

いまいちピンとこない。
ここ最近の俺は、ハーブと共に至高のスマートライフを送っていたはずだが……。

「その様子だと気づいていなかったようだね」

苦笑する係長に、俺はますます混乱する。

本当に心当たりがないのだ。
今の俺はバジルと共に有意義な時間を過ごせている。
こんなに充実したスマートライフは今までなかったってレベルで。

正直こんな状況になっても、俺は懸命に生きているあいつらのことが気にかかっている。
3日間眠っていたということは、全員の収穫タイミングを逃しているということだ。
水だってあげられていない。
よくよく考えれば、俺はこんなところでのんびりと寝ている場合じゃないのではないか?

とにかく、こんなにも夢中になれることがあるってのは素晴らしいことだ。
人間、心の底から夢中になれることと出会えれば、その時点で勝ち組だって話も聞いたことがある。
つまり、俺は勝ち組になっているってことだ。

そんな俺の様子のどこがおかしいのだろうか。
考えれば考えるほど、桐山係長の発言意図が分からなくなってくる。



しかし次の係長の一言で、俺は雷に打たれたような衝撃を受けることとなった。




「……エンジンストップ大会」




「……!!!」




……思い出した。
というか、なぜ俺は今の今まで忘れていたんだ?
そう。エンジンストップ大会だ。

エンジンストップ大会で自信を無くした俺は、スマートを注入しようとハーブを取り入れたんだ。
飽くまで+αのスマート要素として。
とにかく最終的な目的は、折れてかかっていた心に自信を取り戻すことだったはずだ。

(いつから俺は……)

いつのまにか、バジルとの生活が全てになってしまっていた。
手段が目的になってしまっているじゃないか。

たしか、バジルソースづくりに追われてしまっては元も子もないと言っていた記憶もある。

俺としたことが、こんなことにも気づかなかったっていうのか?



その時の俺はすごい顔をしていたんだと思う。
そんな様子を見て、桐山係長は俺が正気に戻ったと判断してくれたんだろう。


「……須藤君。君は本当は栄養失調なんかじゃなかったんだ」

「……え?いや、お医者様はたしかにそう言っていましたが」

「折を見て、私から本当のことを伝えたいと言っておいたんだよ」



どうやら、今の俺なら本当の病名を伝えてもいいと思ってくれたようだ。
そして、俺の目を見て静かに口を開く。




「バジリアンシンドローム」






……なんですと?

『バジリアンシンドローム』。
まったく聞いたこともない病名だ。

「驚くのも無理はないよ。私だって聞いたこともない病名だったからね」

「……え、ええ。して、それはどのような病気なのですか?」

「そうだね……。その前に、君には認識してもらわなければならないことがある。先に言っておくけど、私は何があっても君の味方だ」

「いや……。ありがたいお言葉ですが、突然どうしたのですか?」


なんだか桐山係長の申し出を聞いて不安を覚えた。
何があっても味方?
つまり、俺に何かあったってことだろ?


「須藤君。これで自分の顔を見てみなさい」


係長は手鏡を取り出すと、スッと俺の前に持ってきた。
目の前に鏡がある。
そして、俺はそこに映る自分の姿を確認したところで、言葉を失うことになった。


「……な、なっ!?」


簡単に言うと、そこに映っていたのは太った男性だった。
しかも、口周りが緑に変色している。

俺は信じることができず自身の顔に手を当てるが、ここで更に驚くこととなる。


「……っ!?手、手が!?」


緑に変色していたのは口周りだけではなかった。
顔に添えている手も指先から手首にかけて緑色に変色していたのだ。

まるで緑の手袋をつけているようだった。


「か、係長……!これは一体……!?」


俺は大いに混乱した。
タイトなスーツを着こなすために体は鍛えていたはずだし、ついさっきまで手だって緑色になんてなってなかったはずだ。
一体どういうことなんだ?

「正気に戻ったことで、ようやく自身の変化に気付けたようだね」

「正気……?い、いや、先ほど医者から話を聞いていた時も、手は緑になんかなってなかったはずで……」

「須藤君」

係長は身を乗り出して、俺の肩を掴む。
そして、俺の目を見てゆっくりと言葉を続けた。

「ここ数か月で君の手や口周りは少しずつ緑色に染まっていたんだ。体型だって少しずつ変わっていたんだよ」

「あ、ありえない……!」

俺はスマートの為に、身だしなみには人一倍気を遣う。
太ってくれば当然ダイエットを始めるだろうし、手や口が緑色になっていたならば、それを放置するはずがない。
俺はそれに気づかず生活を送っていたというのか?
いやいや、そんなことあるはずがない。

「落ち着いてくれ須藤君。君がそれらの変化に気付かなかったのは仕方がないことなんだ。なぜなら、バジリアンシンドロームにかかっていたんだからね」

「バジリアンシンドローム……」

またしても出てきた、聞いたこともない病名。
それが原因というのはどういうことだ?
いくら何かの病気にかかっていたとしても、自身のここまでの変化に気付かないなんて考えられない。
まったく頭が回らない様子の俺を見て、係長はバジリアンシンドロームについて説明をしてくれる。

「いいかい?バジリアンシンドロームって言うのは、一種の催眠みたいなものなんだ。これは、バジルを愛しすぎた者に出る症状でね。バジルを育てるにあたり、都合の悪い思考や風景が全て取り除かれてしまうというものだ。こちらがバジルを育てていたつもりが、いつの間にかバジルに脳や体を支配されてしまう。本当に恐ろしい症状なんだよ」

「バジルが人間を支配ってそんな。……いや、まさか」

あまりにも馬鹿げた内容だったが、俺の視界には現に緑色に染まってしまった手が映っている。

考えてみれば、先ほど係長からエンジンストップ大会という単語を聞いた途端に、一気に思考がクリアになったんだ。
それに、先ほどまで充実していたと思っていたここ数か月の記録が急におぼろげになり始めた。
……本当に俺はバジルに支配されていたのか?

「バジリアンシンドロームから目覚めた人間は、全員今の須藤君のような反応をしたようだよ」

なんということだ。
俺は植物にコントロールされてたというのか。

全てを悟り、その不甲斐なさから俺は緑色に染まった両手で顔を覆ってしまう。
めちゃくちゃバジル臭い。
先日まで愛おしくてたまらなかったはずのこの香り。
今はもう「めちゃめちゃバジル!」くらいにしか思わない。

俺はどこまで落ちれば気が済むんだ。

「す、須藤君。そう気落ちしないでくれ。これは自分では防ぐことができない病気なんだ。他人が指摘して本人を正気に戻すしかない」

「……」

「だから、本来であれば上司である私がすぐに声をかけるべきだったんだ。本当に申し訳ない」

「……の」

「私は業務内容だけを管理する人間味のない対応をしてしまっていた。心・技・体、すべてをマネジメントするのが上司の役割だと黒川専務からあれほど言われいたのに……」

「……の、……の」

「だから、一緒に頑張ろう!大丈夫、また一から君のスマートを始めればいい!間違ってもスマートを諦めてはいけないよ!」

「……のののののののののの」

「……す、須藤君?」



「NOTスマートォォォッッ!!!!!!!」



病院中に俺の叫び声が響いた。



「あ、大丈夫そうだなこれ」



桐山係長は俺の肩を叩くと、すぐに病室から出て行った。




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