【小説】それゆけ!山川製作所 (#16 社内行事②)
このエンジンストップ大会。
ドームに詰めかけている観客(社員)たちが、大会を楽しむためになくてはならないものがある。
そう。車内の様子を映し出すスクリーンだ。
よく考えてみてほしい。
この大会において、すべての人々が最も注目している箇所がどこかというと、それはやはりブレーキペダルを踏む競技者の右足なのだ。
もちろん、孤独な車内で己と戦う競技者の表情に注目している者や、時間の経過と共に現れる競技者の体の変化に注目してる者もいる。
しかし、いずれにせよそのすべては車内という密室で起こる事柄なのである。
つまり、遠く離れた観客席から車内の様子が確認できないようであれば、わざわざドームにまで来て観覧する意味がないのである。
席から延々と動かない車を見続けるなど、誰も楽しいとは思わないだろう。
今日の『YAMAKAWA DOME』には、常設のバックスクリーンに加えて、観客席の至るところに仮設スクリーンが設置されている。
これによって、観客(社員)たちは遠く離れた客席から、リアルタイムに競技の進行状況を詳しく知ることができるのである。
競技前の演出であれだけの盛り上がりを見せたのだ。
競技が開始された今、会場内の誰もがその仮設スクリーンに釘付けになると思うだろう。
しかし……。
今、仮設スクリーンの映像を見ている者は誰1人としていなかった。
それどころか、各自弁当を広げ、酒を飲み、競技などそっちのけで大盛りしている。
「黒川専務……。今って競技中ですよね?」
莉子の目には、急に観客(社員)たちが大会から興味を失ったように映っているようだ。その急激な変化に、困惑の声を上げた。
「いやなに。これも毎年恒例の流れだ」
「恒例ですか?」
「ははは。たしかに初めてこの大会を見るものからすれば、異様な光景に見えるだろうな」
確かにこの状況はまさに異様と言えた。
あの大会への期待から来ていた盛り上りは一体どこへ行ってしまったのか。
ここで、苦笑した黒川専務は理解できていない莉子に説明を始める。
「競技に臨んでいる3名は、厳しい予選を通過した者たちだ。当然ながらその実力は折り紙付き。となると、最初の1時間など全く動きが無いのだよ」
「な、なるほど?」
「この競技の見どころは様々あるのだが、いずれにしても1時間を過ぎた頃から見え始めるものだ。さぁ、我々も今のうちに食事を取ろうか」
そう言うと、黒川専務までもが弁当を広げ始める。
よく見れば、先程まで実況席にいたユキも観客席に移動しているようで、仲間たちと盛り上がっている姿が確認できた。
「もとより参加者たちは車内という孤独の中で己と戦っている。周りの状況など関係ないさ」
「そ、そういうものなんですかね……」
いまいちしっくりと来ていない様子の莉子であったが、お腹は空いたので弁当は食べるのであった。
1時間が経とうかという頃、黒川専務の予想通り、飲み食いをしていた観客(社員)たちは1人また1人と競技に注目し始める。
いつの間にか、ユキも実況席に戻ってきていた。
「さぁ!皆様盛り上がっていますでしょうか!まもなく1時間が経とうとしております。ご存じの方も多いと思いますが、この競技が面白くなるのはこの時間から!過去のデータを参照しますと、85%の確率でここから30分以内に最初の脱落者が出ます。今大会はどうなるのでしょうか!」
ユキの実況を機に、ほとんどの者がスクリーンに目を向けるようになった。
つられて莉子も実況席から映像を見るが、ここであることに気がつく。
「あれ?須藤先輩、何だかソワソワしてません?」
まばたきを一切せず微動だにしない飛雄馬、腕を組み目をつむっている田中であったが、健一だけはわずかではあるが目が泳ぎ始めている。
「莉子さん、よく気づきましたね!さぁ須藤選手、最初の山場を乗り切ることができるのか!」
ユキの実況に「山場?」と莉子が疑問を口にする。
「始まったか……」
黒川専務が一言漏らす。
「えっとお2人共、須藤先輩には何が起こっているんですか?」
状況に付いてこれていない莉子が疑問を口にする。
確かに健一は目こそ僅かに泳いでいるものの、特にそれ以外に不調と思えるような変化が出ているわけではない。
黒川とユキがこれほどまでに注目した理由がわからなかった。
「浜川さん。このエンジンストップ競技において大切なものが2つある。1つ目は大星くんのようなペダルを支えきる筋力。そしてもう1つは集中力だ」
黒川専務の解説を聞いて「それが?」と要領を得ない様子の浜川であるが、補足するように黒川専務は続ける。
「この競技、行うことは極めて単純だ。ブレーキペダルに足をおいて動かさない。それだけだ。だからこそ競技中は足を動かさないことだけを考え続けなければならない。……しかし、やることが単純な故に人は様々なことを考え出してしまうのさ」
「……!」
莉子はハッした。
確かに日頃運転をする際には全く気を使っていないエンジンストップであるが、ある時ふと「エンジンストップしているな」と意識した瞬間、ブレーキペダルを踏む右足がムズムズしてくる時がある。
ブレーキペダルを少し踏み込んでもエンジンストップは継続するのかと余計なことを考え出してしまう時もあったことを思い出す。
「足を止め続けることだけを考えなければならないというのも語弊があるな。上級者ほどむしろエンジンストップしているということを意識の外に出し続けることができる」
全く奥行きの無い競技だと思っていた莉子は、ここで考えを改めることとなった。
たかがエンジンストップ。されどエンジンストップ。
これほどまでに自分を律する必要がある競技は他にないのかもしれない。
「黒川専務!須藤選手のあの表情、どう見ますか?」
「ふと考え出してしまったのだろう。ブレーキペダルを踏む右足と左足を入れ替えてもストップしたままにできるのかとね」
「え!?表情でわかるもんなんですか?」
ユキの質問に黒川は即座に返答した。
しかし、なぜそんな事がわかるのか、莉子には理解ができない。
「浜川君。あれを見たまえ」
「あれって……。あ!」
黒川は健一の映る映像を指差す。
そして、莉子も気づいたのだ。
フリーとなっている健一の左足が、かすかに震えていることに。
「今までの経験上、脱落する者に出る予兆は何パターンかに分かれる。1つはブレーキペダル自体を動かす誘惑に抗うかのように、右足が震えだす者。もう1つは動かしてはならないという呪縛への拒否反応から、体全体が震えだす者。そして最後に、左足で何らかのアプローチができないかと考え出してしまった者に出る、左足の震えだお」
「た、たしかに、須藤先輩の左足が細かく震えだしていますね……!てか語尾」
「さぁ須藤選手!ここで己を律することができるのかぁ!!」
観客席からはその状況を理解している玄人も多いのか「こりゃ厳しいな」「持ち直せたら強いぞ」と様々な声が上がっていた。
ちなみに、予選通過の標準タイムは2時間である。
現在のタイムは1時間20分。
健一がいつもの実力を出すことができれば、まだまだ余裕のある時間帯であるはずだった。
実は、毎年このように実力を十分に発揮することができずに散っていく選手が必ず1人は出てくるのである。
有観客という高揚感が原因なのか。本番という緊張感が原因なのか。
昔、黒川がその要因を探そうと実際に脱落をしてしまった者にインタビューを重ねたのだが、いずれの選手もこう答えたのだ。
「わからない」
皆、当時の記憶がないのだ。
気づいたら競技が終わっていた。気づいたら医務室のベッドの上だった。
全く原因が探れないのである。
いつしか、黒川は理屈を追求することを諦めた。
そして、社内ではこのような噂が流れ始める。
『YAMAKAWA DOMEには魔物がいる』
毎年、誰がこの魔物の標的になってしまうのかは始まるまでわからない。
年によっては優勝候補の者が生贄となってしまったケースもあった。
今回は、どうやら健一にその矛先が向いてしまったようである。
しばらく、自身の気まぐれな左足と戦っていた健一だったが、その瞬間は唐突に訪れた。
「あ」
ふと誰かが言った。
ついに誘惑に耐えきることができなくなった健一が、ゆっくりと右足と左足を入れ替え始めたのである。
「おおっと!ついに須藤選手!ついに耐えきれず動き始めました!」
「耐えろー!!」
「あー、終わったなこりゃ」
「まぁ頑張ったほうじゃないか?」
ユキの実況に合わせて、観客席から諦めの声が上がり始めた。
「今回のエンジンストップ大会はあくまでも長さを競うものだ。技術点の加点はない。……悪手だぞ須藤」
わかってはいるがやめられない。
そのことを体の芯から理解している黒川専務は独り言のように呟く。
それでも須藤の足は止まることはなかった。
「も、燃えろ!俺のスマーティングファイヤァァァァ!!!!」
ここで、己を鼓舞せんとする健一の雄叫びがドーム中に響く。
ここまでくれば無事に交換を終えてくれと誰もが祈るばかりだが……。
「……ドゥルン!ドドドドドドド」
「NOTスマートォォォォ!!!」
「あああっと!ここで須藤選手脱落です!」
1時間23分。
資材部調達課『スマートの申し子』。
須藤健一(スドウケンイチ)。
脱落。