【小説】それゆけ!山川製作所 (#9 小森 啓介②)
結局、僕は昼休みが終わる間際までトイレから出ることができませんでした。
初めてだったんです。
比喩ではなく、体中に電気が走ったようなこの感覚。
言葉でしか知らなかった『背徳感』というものを、本能的に感じたことで沸き立つ高揚感。
立川さんは知りません。
僕の脳内で、ベルトを外しチャックを下ろされていたなんて。
これがただの想像であったのなら、ここまで興奮はしなかったでしょう。肝心なのは、自身の置かれている状況や状態を相手に投影しているということ。
僕が感じた焦りや恥ずかしさ。
それをダイレクトに相手に置き換えることで、より生々しく、よりリアルに想像をすることができたのです。
この仕組みは、もはや発明だと思いました。
ああ……。特許申請をしたいくらいです。
そうだ、これを『ネオ脳内変換』と名付けましょう。
トイレの個室を出て、洗面の鏡で自分の顔を見た時、僕は本当に驚いたのを覚えています。
そこにいたのは、自信がなく漠然とした不安を抱えていた今までの自分ではなく、何か憑き物が落ちたような、何か吹っ切れたような、新しい小森啓介だったのです。
昼休みが終わる直前に、僕は自身のデスクへと戻ってきました。
結局、午後の仕事に対する準備は何もできていません。しかし、今はそのことについて特に思うことはなくなっていました。
「あれ~小森先輩?今日は随分と余裕があるんですね。大丈夫なんですか~?」
着席するとすぐに、隣に座る女性が声をかけてきます。
彼女の名前は西園寺 礼香(サイオンジ レイカ)。
歳は僕の1つ下で、勝気な瞳とポニーテールが特徴的な同じ課の後輩です。
彼女が入社してすぐの頃は僕が仕事を教えていたのですが、比較的仕事のできた彼女は僕の技量などすぐに追い越し、今では事あるごとにこうやって嫌味を言ってくるようになりました。
いつもであれば、僕はすぐに「す、すいません」と謝っていたでしょう。別に何か悪いことをしたわけでもないのに。
それ程までに、僕の心は弱っていたのです。
しかし、僕もう今までの僕ではありません。
「…………ふふ」
「な、なんなんですか?」
ニヤニヤと笑っていた西園寺さんは、余裕のある僕の態度を見て、すぐに顔色を変えます。
微笑ましいものです。
彼女はとても可愛らしい顔をしているのですが、どうにも負けず嫌いで子供っぽいところがある。
その性格も相まって、彼女はまだまだ会社に解け込むことができていません。
いくらか仕事ができるといっても、ここは天下の山川製作所。彼女より仕事のできる社員は多い。
そんな中で、自分よりも仕事ができない僕をこうやって弄ることが、彼女にとっては安心に繋がったのでしょう。
「西園寺さん。午後も頑張りましょう」
「な!?あ、あなたに言われなくと……」
ふふふ。わかっていますよ西園寺さん。
不安で仕方がなかったんですよね。僕を馬鹿にすることで、心の平静を保っていたんですよね。
ですが、申し訳ありません。
僕はもうあなたの言動に揺さぶられることはありません。
なぜなら。
僕はあの立川ユキに、ベルトを外させた男ですから。
今更あなたが何を言おうが、僕の心には響きません。
「な、なんでそんなに余裕があるのかはわかりませんけど、いつもみたいにとばっちりを受けるのは勘弁ですからね!」
「ええ。今までご迷惑をおかけしていたようで申し訳ありません。これからは共に切磋琢磨し、頑張りましょうね」
「は!?意味わかんないんですけど……」
今までの僕を見ていれば、その反応は最もなのかもしれません。
自分で言うのもなんですが、僕は彼女と初めて会った時から、どこか落ち着かず、挙動不審な態度をとってしまうことが多々ありました。
女の子と話す機会なんて、これまでの人生で殆どなかったんです。
それに加えて度重なる仕事上でのミス。
「切磋琢磨」なんて言葉はとても僕の口から出せるものではありません。
ただ、今の僕は西園寺さんに話しかけられても、全く動揺することはありませんでした。
それに、仕事でミスをする気が全くしない。体の芯から自信が満ち溢れてくるのです。
なぜなら。
僕はあの立川ユキに、チャックを下げさせた男ですから。
さぁ、おしゃべりの時間はここまでです。
僕は社内システムで各所からの報告数字のチェックを始めます。
ここで、また1つ驚いたことが起こりました。
今まで記号の羅列にしか見えなかった膨大な数字が、ひどく明瞭に、くっきりと認識することができたのです。
それだけではありません。冷静に見てみれば、部署によって数字の規模にある程度の傾向があり、そこから各部署の業務背景までもが想像できるのです。
一方は、ただ記載されている数字を右から左へ転記する者。
一方は、記載されている数字の背景を理解し、報告数字の1つ1つに向き合いながら資料を作成する者。
どちらの方が、よりミスが発生しにくのかは一目瞭然です。
心の持ちようでここまで人間は変わるのかと、ひどく驚かされました。
今は、どこか楽しささえ覚える。
自然とキーボードを叩く指にも調子が出てきます。
「小森先輩~。なんかいつもよりポンポン打ってきますけど大丈夫なんですかぁ?ミスは勘弁ですよ?」
いつもと違う僕の様子に気づいたのか、すぐさま西園寺さんが話しかけてきます。
しかし、今の僕はノッていました。
邪魔されたくなかった。
「西園寺さん。無駄口を叩いていないで集中してください。君の方こそ、ミスが出ちゃいますよ?」
「な、な!?」
思わず言葉を失う西園寺さん。
横目で確認すると、彼女は顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいました。
ワナワナと手を震えさせ、唇をきつく結んでいます。
私の返答が本当に予想外だったのでしょう。
よほど私からの言葉に耐えられなかったのか、今が就業中ということも忘れ、彼女は早口にまくしたて始めてしまいました。
「なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないんですか!今までどれだけ迷惑かけたと思ってるの!?」
おやおや西園寺さん。敬語を忘れていますよ。
「何があったか知らないけど、その余裕の態度がムカつく!!」
椅子を蹴飛ばし、立ち上がってしまいました。
「私の方が仕事ができるの!!あなたにそんな態度がとれる権利なんてないのよ!!なのに……!!」
皆の注目が集まっています。
それでも西園寺さんは止まりません。
「結果出してからにしなさいよ!!」
ぴしゃりと人差し指を僕に向けます。
女性からこれほどまで強く言葉をかけられたのは初めての経験でした。
普段の僕なら盛大にあたふたし、縮こまって謝罪の言葉を口にしていることでしょう。
しかし、繰り返しますが僕の心は平穏そのもの。
これだけの注目を集め、一方的に叱責されているにも関わらず。
涙目でこちらを睨みつける西園寺さん。
フーフーと肩で息をし、細い脚を震わせる西園寺さん。
その様子を見て、僕は軽く息を吐きます。
気づいていますか?
今、あなたの目の前で表情を崩さず、まっすぐと見つめ返している男は。
ノーパンなんですよ?
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