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コトバや

「勇気……勇気を1つください」
消え入りそうな声で私はセラピストに答える。
「勇気ですね。それでは、こちらの魔法瓶の中からもお1つ、言葉を選んでください」
魔法瓶は20本ほどあり、まとめてトレーに並べられている。赤や青や紫、緑とカラフルで、それぞれ大きさが異なる。瓶本体と、付いているタグにも何やら言葉が書かれているそれを、私は順にじっくりと見つめた。
「温かく、抱きしめて」「全てを、包み込む」「何度でも、立ち上がる強さ」「新たな挑戦へ、目覚める」「ゆったりと、落ち着いた」……
文字を目で追いながら、ピンとくるものを探す。
「大胆に、直感にまかせて」「軽やかに、達成する」
「永遠なる、スパイスを」「充足感に、満ちた」。

私は今、魔女(のような風貌をした、だいたい30代前半くらいか、そんなに上には見えない女性の)店員が経営する「コトバや」という店のカウンター席に1人座っている。
ここはつい先月にオープンしたばかりで、占いやタイ式のヘッドスパなどが入る4階建てビルの、最上階にあった。
なんでも、選んだ言葉に合わせてボディケアメニューを提供してくれるらしい。かく言う自分探しの旅のようなもので、その真っ最中にいるわけなのだが。

「豪快に、笑って」、…「なりたい自分に、満足する」これだ。私は明るいオレンジ色のボトルを手に取る。
カウンターに立つ魔女が、静かに「へぇ。教えて頂戴、あなたはどんなになりたいの?」と私に尋ねた。
私はゆっくりとまぶたを閉じ、あの日を回想する。そう、あの日。
大学の入学式、色んな勧誘を受け、サークルは映画研究会に決めた。決めては特になかったが、元々1人で映画館に行くのが好きだったゆえに、退屈をしのげるのではと考えた。その日は部員でそれぞれおすすめのDVDと、酒やつまみを持ち寄って、先輩の家に集まり映画鑑賞会をすることになっていた。
集まると言っても、たったの4人だ。
私、同級生のヒロム、3回生の高田先輩とかえでさん。
「さ!飲みましょ飲みましょ〜!!」ヒロムがコンビニの袋からガサガサと酒の缶やつまみを出し、机に並べる。「ヒロム!こら、おまえ映画がメインだかんな!ったく…」ヒロムに一喝すると私の目線に気が付いたのか、高田先輩はこちらに体を向き直し「唯ちゃん、来てくれてありがとね」そう言って、にかっと笑った。
正視できない。私は、高田先輩のことが好きだ。
鑑賞会に参加したのも、高田先輩目当てだった。21歳の男性が一人で生活している部屋に上がるのは初めてで、ましてや高田先輩の部屋ともなると、ついまじまじと見つめてしまった。「何から観る?てかみんな。DVD、見せて」かえでさんがその透き通るように白い手を、細くて長い指を、こちらへ突き出す。ぼぅっとしていた私がはっとして差し出すと、「ん、ありがと!」と微笑む。切れ長な瞳は黒目がちで、豊かなまつ毛が白い肌に影を落とす。思わず見入ってしまう美しさだった。DVDプレーヤーにディスクを入れ、リモコンを手にしたかえでさんが部屋の証明を最小限にまで落とすと、鑑賞会が始まった。
映画も三本目に差し掛かってお酒も進んだ頃、ちら、と横に目線をやると、高田先輩とかえでさんが目を合わせてクスクス笑ったり、ヒロムが大きな欠伸をしていたりして、空気がアルコールを含んでとろん、と緩んでいくのを感じた。私もだんだんと意識が遠のき、映画の音声は、今や子守唄になっている。
瞼を閉じてしばらくすると頭上でかえでさんの声がして、タオルケットをかけてもらった所で、完全に私の意識が途切れる。
そのまま深く、眠ってしまった。

空気が振動するような感覚で、目を覚ます。ズキンとこめかみの辺りが痛み、いてて…と指で抑えながらゆっくりと目を開ける。知らない部屋で、一瞬ここはどこかと見渡した。そうか、高田先輩の部屋だ。私は眠ってしまっていたのだ。思い出し、その直後、ベッドの上に、カーテンからかすかに入る光に晒されたかえでさんの白い裸身を見た。
なにかの上に跨るような姿勢で、上下するかえでさんの動きに合わせて、軽くベッドが軋む。はぁ、とかすかに震える息が何度も小刻みに吐き出されては、部屋の湿度を上げている。
見覚えのある大きな手が下からかえでさんの腰を掴み、グッと引き寄せる。かえでさんは首を反らして仰け反った。
そこで何が起こっているのかは、すぐに分かったが心だけが理解を拒み、目には涙が滲む。
「……くっ、」噛み締めるような嗚咽が漏れてしまい、はっと口をふさいで、かえでさんに視線をやると、目が合った。かえでさんが微笑む。見られちゃったか、とでも言うような、そんないたずらっぽい、どこか勝ち誇ったように見える笑みだった。私が高田先輩を好きなこと、かえでさんは知っていたのだろうか。
悔しくて、辱められたような気がして、私は荷物を引っつかむと、高田先輩の家を出た。走って、どこにゆくかも分からない地下鉄に乗り込んだ。
あの場所でなければ、もうどこでも良かった。家までの道も、自分の部屋でも、私は布団の中に籠って泣いた。声を上げて、子供みたいにわんわん泣いた。

ようやく意識が今へ戻り、目を、開く。気がつくと私は、そこに立ちつくし泣いていた。目は熱く、頬がしっとりと濡れているのが分かった。足元から正面に視線を戻すと、魔女が、「気が付いた?」と少し困ったようにこちらを覗き込む。
しばらく間が空いて、私はゆっくりと、「かえでさんに、なりたい」とこぼした。
じわじわと悔しさややるせなさが蘇ってきて、唇が震える。再び俯く私を見た魔女は、大きなため息をつくと、「悪かったわよ、あの時は。」と投げるように言った。
え、。顔を上げると、そこに立つ魔女は、かえでさんだった。どうして、と声にならないまま喉につっかえた言葉を、私はごくりと飲み込んだ。
「私も好きだったんだもん」少女のように、かえでさんはそう言った。知っていたんだ、と思った。彼女のしょうの悪さを許せない気持ちより、あの日の自分のみじめさをかえりみるより、ただそう思った。
「誰とでも寝るのよ、あの人は。」とかえでさんは続ける。「そりゃあもうとっかえひっかえね。私はそのうちの1人だったってわけ」かえでさんは苦笑いしたが、泣いているようにも見えた。
私は黙っていた。
憧れの対象が、音を立てて崩れていく音を、静かに聞いていた。不思議とそこに絶望はなくて、むしろ今まで真っ黒な雲に埋めつくされていた空が、太陽を取り戻したかのようだった。
もう二度と顔も見たくないと本気で思うくらい嫌いで、許せなくて、彼女になりたいと涙ながらに願うほど、憧れた。彼女の生まれ持つ全てがうらめしかった。とめどなく私の内から湧いてくる矛盾した感情に飲まれそうになって、私はふと顔を上げ、彼女を正面からじっと見据えた。悲しくなるくらい、彼女は何もかも美しいままだ。切れ長の黒目がちな瞳、豊かなまつ毛は血管まで透けそうな白い肌に影を落とし、綺麗に通った鼻筋、ほんのりと紅い唇。艶のある豊かな黒髪が、胸元にストン、と落ちるように流れ込んでいる。触れたら簡単に壊れてしまいそうな儚さは、細部まで作り込まれた天使の彫刻を思わせた。彼女の持つ美しさは芸術的で、見る人を惹き付ける不思議な雰囲気が、目には映らずとも確かに漂う。
あの日の彼女まで失ったら、私は今度こそ心の底から絶望したと思う。いや、もう彼女を恨むことも羨むこともないなら、私はまっさらになれたのだろうか。

それからかえでさんと私は、しばらく体を寄せあって泣いた。お互いの、まだ傷ついた少女のまま大人になれない部分をかばい合うように、きつく抱き合った。気付く。私は私として、誰かを恨んだり、羨んだり、そして愛したいのだと。私は彼女ではないし、彼女もまた私ではない。それがとても誇らしかった。息を吸い込んで、目を閉じる。肺に溜まった空気を鼻から出しきって、彼女の肩をポン、と叩き「私、もう帰るわ。」と言って立ち上がった。かえでさんは心配そうに、もう遅いからうちへ泊まりに来ればと言ったが、まさか今度は、私と寝る気なの?とちゃかして笑った。実際、そうしてもいいくらいだった。彼女も美しい顔を涙でぐしゃぐしゃにして、子どもみたいに笑った。

報われなかった気持ちも、過去も、時間がかかってもいいから、こうやって一つずつ整理して生きてゆきたい。描いた理想の人生とは程遠くても愛すべき日々に、やがて傷さえ愛しい奇跡と、悪くなかったと思える能天気を。
私以外誰も私に替われない苦しみを、痛みを、そして喜びを毎晩抱いて、眠りにつきたい。そう思った。

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