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フルスロットルの夜

目の前を乗るはずだった夜行バスが通り過ぎていく。
道中には1ミリの無駄もなかった。
電車は何号車に乗ればスムーズに改札へ向かうことが出来るか、駅の構内はどの導線を辿れば最短で夜行バス乗り場まで到着出来るか、全てを熟知していた。完璧だった。
ただ、家を出る時間が遅かった。
私は元より時間の概念が希薄である。
およそ野球部に所属していたとは思えないルーズさは最大の欠点であると自覚している。
事実、それが災いして多くの損失を出してきたが、直る気配はない。
なかなかに社会不適合者の素質を感じさせる。それが私という人間である。
夜行バスのお見送りをしながら閃いた私はすぐさま帰宅しシルバーのスクーターに飛び乗った。
時は2月、真冬の名古屋市内を走り抜ける。
地獄の始まりとも知らずに。

大学生活も終盤に差し掛かった頃、遠距離恋愛をしていた私は、週末になると格安の夜行バスに乗って彼女に会いに行くという生活をしていた。
名古屋から東京までバスに乗り、一旦実家に帰ったら原付を飛ばして彼女の家へ向かう。
そんないつもの週末を迎えるはずが23時を過ぎてまだ名古屋にいる。
翌日の午前中までに家に到着していなければ彼女が機嫌を損ねることは目に見えていた。
それだけを回避したい一心で思いついた作戦がスクーターで彼女の家に向かうことだった。
当時1週間で400km程度走っていた私にはその瞬間、容易なことに思えた。
何故7日かけて走っている距離をひと晩でいけると思ったのかは自分でも謎である。
ただはっきりしていることは、この男は数字の概念も持ち合わせていないということ。
下道で約9時間、今から出れば朝には着く。
半キャップのヘルメットを被り、まるで近所のスーパーにでも行くかのような格好のままスクーターを走らせる。

最初の30分は余裕だと思った。
このペースなら問題ない。鼻歌混じりで国道19号を走っていく。
しかし中津川を過ぎる頃にあることに気づく。

「寒い。」

寒いのである。
国道19号は名古屋から長野県松本市へ続く道路であり、ほとんど山の中を走る道だということを知らずに走っていた。
服装も、ルートも、乗り物も、なんなら夜行バスに乗り遅れるところから全てを間違えている。
慌てて苦し紛れに雨用のカッパを上から着ることで寒さを凌ごうとした。
気休めにもならない。
止まっていても寒いだけなのでとにかく走る。
道中で目に入った気温計には「只今の気温-5℃」と表示されていた。
通りで寒いわけだ。妙に納得した。

凍える寒さの中ノンストップで走り続けた。
だんだんときちんとした山道になってきたあたりで更なる異変に気づく。

「道が凍っている。」

こちとら110ccの原付2種のスクーターである。今思えばここまでの道のりを走破してるだけでもとんでもないのだが、凍った山道を登れる乗り物ではないことは火を見るより明らかだった。
それでも通らないわけにもいかないとスクーターを降りて押しながら歩く。歩くのも難儀なほどしっかり凍っている。
程なくして前方で同じく凍った山道を登ることを試みていたであろうトラックの運ちゃんから「これ以上は無理だよ」と声をかけられた。
確かに無理そうだ。絶望を感じた。
これ以上前に進めない上に、街灯もろくにない山道に男1人スクーター1台で立ち往生は一巻の終わりだ。
激しい後悔に襲われた。
こんなアホなことをするんじゃなかった。
出費は痛いが始発の新幹線に乗ればよかった。
こんな思いをするならまだ彼女から烈火の如くキレられる方が幾分マシだった。

あきらめたらそこで試合終了ですよ。

某人気バスケ漫画の某キャラクターの声が聞こえる。
そうだ、決して諦めてはいけない。
私は如何なる逆境も跳ね返してきた、という覚えはないが諦めの悪さには定評があった。
有料トンネルの存在を見つけた私はすぐさま200円を課金してツルツル地獄のピンチから脱した。
文字通り山場を越えたと思いきやこれから向かうのもまた山なのだ。
さすがに心が折れかけたとき、群馬ナンバーのトラックを前方に発見した。
普段ちょっと小馬鹿にしてきた群馬ナンバーがこのときばかりは神々しく見えた。

こいつについて行けば間違いない。

松本から高崎までの間を群馬ナンバーのトラックの後ろについて走った。
いい具合に風よけになっていくらか寒さも凌げた気がした。

ようよう白くなりゆく山際。冬であるが。
朝日を横目に山を下る。
改めてスクーターなどで来る場所ではないと思いながら、なるべくブレーキを使わずに進む。
何故この無謀な挑戦に至ったかを思い返していた。
夜行バスに乗り遅れたこと、安直な発想、そんなことよりももっと根底にある部分の思いがあったではないか。
私は、彼女に会いたかったのだ。
家で自分のことを待つ彼女に一刻も早く会いたい。
ハンドルを持つ手に力が戻ってくる。
彼女のことを思い浮かべた。
何故か癇癪を起こしたり、やたらヒステリックになって罵詈雑言を浴びせる彼女の姿ばかりが浮かんだが、都度デリートしてなるべく笑っている顔を想像した。
これから会う彼女の機嫌は果たして丁か半か。
いろんな意味でゾクゾクしながら家へ向かった。

スクーターに跨り始めて約10時間。大冒険を終えた勇者を迎えた彼女の第一声は労いでも罵倒でもなく高らかな笑い声だった。
トラックの排気ガスを真後ろで受けて真っ黒になった顔で寒さに小刻みに震える彼氏の姿はさぞ滑稽だったろう。
その後風呂を借りて、ご飯ごしらえの間仮眠を取っていたのだが、微動だにせず眠る姿はミイラのようだったとか。
当初の予定が変わっても上機嫌だった日は後にも先にもこの日だけだったはずだ。
遭難しかけた甲斐はあった。

帰りの道中の記憶はほぼない。
ただ、満足感と少しの誇りを胸に帰ったのは覚えている。

愛に勝るものはない。
愛があれば、往復800kmをスクーターで走破することだってできる。

あれから丁度8年が経つ。
彼女が今何をしてるかは、知らない。

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