サンデル教授のトロッコ問題
ハーバード大学のサンデル教授が良く用いるトロッコ問題は「線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中の5人が猛スピードのトロッコに轢き殺されてしまう。この時A氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏は路線を切り替えるべきか否か?」という問題である。このトロッコの問題を善の定義で解いてみます。
善の定義では正しい行為は私欲を抑え公の為に行動すると言う事です。もし五人の作業員の中に親友がいても、難しい事だが私欲を挟んで考えてはならない、常に公(みんな)の為になるのはどっちなのか?と考えなければなりません。
このトロッコ問題では線路を切り替えて五人を助けることに賛成する人たちが多いのです。しかしこれは五人にとっては運命であろうし、一人の作業員の命を奪うのは人間の恣意的な問題である。本当に一人を故意に殺し五人を助けることが正しいのでしょうか。
それでは五人ではなく二人しか助からないならどうか、やはり二人を救うことに賛成が多いのだろうか。また百人の作業員が救えるならどうであろうか。しかし皆さん、実際に暴走トロッコから五人を助けるために本当に、現実的に一人の罪のない人を殺すことが出来ますか?
また別のトロッコ問題では太った男を線路に突き落とせばトロッコが止まり5人が助かると言う設定もあります。これにおいては太った男を線路に落として5人を助けるのは逆に反対という意見が多いのです。これは何故なのでしょうか? 前と同じように一人を殺して五人を助けると言うことは同じなのに、今度は反対が多い。しかしその反対する理由を聞いても誰も確実なことは答えられません。何故なのでしょうか?
それは理性ではなく潜在意識でそう感じたからでしょう。理性では分からないが潜在意識では「それはいけないよ」と分かっているのでしょう。
では何故、いけないと感じるのか?それは公(みんな)の為にならないからでしょう。ある数人の人たちを助けるために恣意的に関係のない人を殺しても良いとなれば、私たちは怖くて外には出られなくなるでしょう。何故なら、数人を助けるために、いつ、どんな理由で自分が犠牲者にされるか分からないのです。そうなれば社会は混乱するでしょう。社会の安寧秩序が保たれなくなるのです、ゆえに悪なのです。公(みんな)の為にならないこと、社会の安寧秩序を乱すことは常に「悪」なのです。
初めのトロッコ問題で一人を殺して五人を助けるのが正しいとすれば、それが正しいとして法律になるでしょうか? 自国で何人かが助かれば罪のない一人を犠牲にしても良いという法律を作るとすれば、あなたはその法律に賛成しますか? 世界のどの国でもそんな法律は絶対に作られないでしょう。
ですから恣意的に線路を切り替えて五人を助けるのは誤った行為であるのです。勿論、五人の中に家族がいれば、ある人はとっさに線路を切り替えるかもしれません。しかしそれは殺人として裁かれることを覚悟しなければなりません。このトロッコ問題の本質は恣意的に数人を救うために一人を犠牲にしてもよい、正しいと考えてはならないと言うことなのです。
何故このことに世界の最高の大学であるその教授さえもが気が付かないのだろうか? それはサンデル教授たちが「正義とは何か?」が分かっていないからなのです。絶対善が分かっていれば簡単に解ける問題なのです。
このように絶対善「種族保存、社会の安寧秩序の為」つまり「公(みんな)の為」で考えればトロッコ問題なども正しいであろう答えが出せるのです。 私たちは常に何か問題が起きれば少し私欲を抑えて「公の為になる結論とは?」と考えなければならないのです。それが正しい答えに辿り着ける最高の方法なのです。いかなる選択すべき問題も絶対善である「みんなの為」になる、合致することこそが「常に正しい」のです。
但し、上記のトロッコ問題は五人死のうが種族保存にはあまり影響しない問題です。もし群れ仲間がもう十人ぐらいしか生き残っていないと言う条件でのトロッコ問題ならば、今度は一人を殺し五人を助けるのが種族保存、公の為に合致する正しい行為となります。
このように条件が変われば正しいも変化するのです。問題の答えには絶対に正しい答えは絶対にないのです。条件が変われば正しい答えも変わりますが、しかしその答えは常に絶対善である「公(みんな)の為(目的)」と考えた事だけは変わらないのです。問題の答えには絶対はありませんが、その問題の根拠、目的には絶対があるのです。つまり「種族(民族)保存、みんなの安心・幸せの為、つまりみんなの為と言う目的」になる、適う、合致することは、すべての問題において「絶対的に正しいこと(答え、結論)」なのです。その絶対善「みんなの為(目的)」に合致する答えこそ自信を持って「正しい(答え)」と言えるのです。
絶対善とは「みんなの為」と言う根拠、目的であり、その絶対善に合致する答が常に正しい答えと言えるのです。絶対善とは目的、根拠の事であり、正しい、善とは答え、結論を言うのです。これらを混同してはなりません。
このトロッコ問題で大切な事は私たちは顕在意識(理性)だけではなく潜在意識(本能)、その両方で私たちは生かされていると言うことを知る事なのです。私はよく言います「理性など本能に比べれば屁のようなものだ」と。私たちは何億年もの経験で作られてきた本能の凄さ、叡智を知ることが大切なのです。潜在意識では何が最も正しい事であるのかを知っているのです。しかし顕在意識、理性ではまだそのことを認識できないでいるのです。善、正義とは本能的なものであり、トロッコ問題や死刑問題などを理性で考えようとしても無理があるのです。
またついでに言えばAIによる車の自動運転の場合であれば、このトロッコ問題とはまた条件が違いますので、正しい答えは一人を殺し五人を助ける方が正しい行いとなるのです。
このように正しい答えと言うのは常に問題の条件によって変わりますから絶対に正しい答えと言うものはありません。しかし絶対に変わらないものが絶対善である「みんなの為」と言う根拠、目的なのです。この絶対善である「みんなの為(目的、根拠)」に論理的、道理的に合致する答こそが常に正しい答えと言えるのです。正しい答えは常に「みんなの為」になる、適う、合致する答だけなのです。
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