「無知の知」を善の定義で考える
ソクラテスは産婆術という問答法を考えました。これは対話して相手の答えに含まれる矛盾を指摘して、相手に無知を自覚させて自分自身で真理に導く方法です。
このソクラテスの「無知の知」について少し考えてみれば、ソクラテスは「賢人たちは本当の善(絶対善)とは何かを知らない」と言うことを知っていたのでしょう。また善はよい意味の言葉にはすべて内包していて、善こそ全ての良い言葉(愛、幸福、尊厳、勇気などなど)の本質だと言うことも彼は知っていたのではないでしょうか。
ゆえにソクラテスは当時、賢人と言われる人たちと議論しても本質を知らない彼らを必ず言い負かせるという自信があったのです。だって当時も善は相対的と考えられおり、誰も善の本当の意味なんて追求しなかったし、善、正しいは人それぞれだと思っていたのですから。
しかしソクラテスは絶対的な善はあるはずだと考えていました。ゆえにソクラテスは「本当の善はあるはずだ、しかしみんなはそのことは知らない」と言うことを知っていたのです。「無知」とは、言うならば「絶対善を知らない」と言うことでもあるのです。善を知らなければ本当のことは何も知らないのと同じなのです。しかしそのソクラテスでさえ「善とは何か」その本質は分からなかったのです。
ですが善の本質(絶対善)を知らなくても、ソクラテスのように善という絶対的なものがあると考えるだけでも、善は相対的であると考えている人たちに比べて断然に賢いと言えるのです。
「無知の知」とは「善とは絶対的なものがあり、そのことを自分は知らないことを知りなさい」と言うことでもあるのです。
ですがソクラテス自身、正しい事、つまり本当の善を知らなかったのですから、彼が教えられることは「自分が本当の善を知らないことを知れ」と言うことだけでした。ですからソクラテスの弟子たちも本当の善(絶対善)を知ることはなかったのです。
「無知の知」を現代に当てはめてみれば、善は相対的であると考えている人たちは、ソクラテスにやり込められたソフィスト、賢人たちと言うことになります。つまり利口ぶっている無知な人たちです。このブログを読んでいる皆さんは「善はみんなの為、公の為」と知っているのですからソクラテスの側になります。
例えば愛とは何か、平和とは何かを議論するにしても善いと感じる言葉にはすべて正しいが入っていなければなりません。正しい愛を語らねばならないし、正しい国のあり方を語らねばなりません。嘘の愛、嘘の政治を語っても何の価値もないのです。
ですから本来「善、正しいとは何か」を知らないで愛を語ったり平和を語ったりしても本当のことを語ることなどできないのです。それは無意味とまでは言いませんが、大切な時間の無駄遣いだと思うのです。逆に悪いと感じる言葉、戦争や差別なども「正しくないとは何か」を知らねば本当の意味を知ることはできないのです。ですから社会的問題に対して善悪の意味を知らないで物事を語るというのは空しいことなのです。ですから、私たちはまず何よりも「正しいとは何か?」を追及しなければならないのです。
勿論、正しい事とは「公の為」だと知ったとしても、例えば「平和とは何か」などの本当の答えがすぐに分かると言うことではありません。しかし正しい平和とは「公(みんな)の為」であると言う視点をもって話し合えば、やがて「本当の平和とは何か」が見えてくることでしょう。正しいとは「科学的には論理的で矛盾がない事、そして道徳的には公(みんな)の為である事」これだけでも知っていれば、正しいとは相対的であり、人それぞれだとうそぶく人たちよりも格段の知恵者といえるのです。それはソクラテスがすでに証明している事なのです。