雨宮まみ氏を超えて遠くまで: 政治(学)への招待、あるいはストーカーの薦め

以下では、40歳の若さでこの世を去った、元エロ雑誌編集者にして元AVライターを経て、哲学上の超難問に徒手空拳で挑んだライターの雨宮まみとともに、どこまで考えられるかを試してみたい。

A. 雨宮の求めていたものとは何か

まず、雨宮による、優れた「かぐや姫」論を取り上げる。雨宮による、物語の最後、月に帰るかぐやとは、かぐやが自殺してしまったことを意味するという解釈に、筆者は説得された。しかし、雨宮の解釈からは、幼なじみの捨丸と空を飛んだ後、月からの迎えが来て皆が意識を失ったかぐやが、幼さな子たちを引き連れて走るお付きの者の歌で、一瞬、目を覚まして、必死に生を肯定しようとする一連の描写がオミットされている。この部分が省略されると、エンディング・テーマとして独特のあたたかさを感じさせる「いのちの記憶」(二階堂和美)の歌詞が理解できない。雨宮の人生には、捨丸的な存在はいなかったことが示唆される。

②雨宮は、その出世作である「女子をこじらせて」(雨宮2011)において、自らのにきび顔にこだわる。しかし、そこで正面から問われないのは、「なぜ自分は顔にこだわるのか」という問いである。「モテたいから」ではないだろう。というのは、男は、その内面の矛盾に惹かれることがあり、彼女のトークショーに来る男たちは、おそらくは彼女のその内面に惹かれてきたのだろう。その意味で、雨宮はモテたのである。モテについて、そして雨宮が実は何を求めていたのかについては、⑦で論じることにして、差し当たって、雨宮が良き伴侶に巡り会えなかった理由について、考えてみよう。

③さて実は、雨宮のように、内面に複雑なところを抱えた女性は、「私の中の嫌いなところを好きだと言う人には、近づいて来てほしくない」と思いがちのようである。吉野朔実による半自伝的マンガにちなんで、筆者はこうした心理を「瞳子さんのジレンマ」と呼んでいる(吉野2001)。とても雑にまとめて言うと、「私のことを好きだと言う人は嫌い」というわけである。そして、こういうメンタリティに陥ってしまった女性は、しばしば女を喰い物にしようと待ち構えているクズ男に捕まってしまう。心ある男性は、その光景をただ悲しく見ていることしかできない。

したがって、瞳子さんのジレンマ状況に陥ってしまった場合、男に救いを求めるのは著しく難しくなる。自分と一緒に「取り乱し」(田中美津2016)てくれる男はそう簡単には見つからない以上、彼女は、自分の分析に向かうことになる。

⑤雨宮は、「女子をこじらせて」に続いて、「ずっと独身でいるつもり?」を書いた後、「女の子よ、銃をとれ」で、自己分析へと向かう。そこでの彼女の主題は、「自由」である。雨宮は、繰り返し、「自由」という言葉を使う。

しかし、雨宮は、自由という言葉の意味を分析せずに使っているために、混乱の度を深めていくように見える。例えば、雨宮は、次のように書く。

1. 「私は思います。日夜想像します。人の視線や、世間の常識や、善悪の基準すら関係のない自由な世界で、どんなものにもとらわれず、好きな装いをし、気持ち良く深い呼吸をしている自分を。 そんな自分は、どんなに美しいだろうかと思います」(雨宮2017: 4 kindle edition)。

感覚は何となく分かるものの、雨宮はこのとき、「自由」という語をどういう意味で使っているのだろうか。雨宮に対し、「その言葉で何を意味するのか」を繰り返し問う、ソクラテスのような良き教師がいたならば、雨宮はあのように早逝することはなかっただろうと思うと、彼女がそのような機会に恵まれなかったことを悲しく思う。

B. 積極的自由: 雨宮みやの求めたものの一解釈

さて、雨宮の言う自由の意味を理解するための一つの手がかりは、以下のような雨宮の自由の使い方を見ると得られる。

2. 「年齢や他者の視線、自分自身の思い込みから自由になり、本当にどんなことにもとらわれない老女になれたら、誰もがそのときこそ、自分の王国の女王になれるのだと思います」(雨宮 2017: 88-89 kindle edition)。

⑥この雨宮の自由の用法を見たとき、(政治)哲学を学んだ者ならば、雨宮が「年齢や他者の視線、自分自身の思い込みから自由になり」と言うことで、(政治)哲学者アィザイア・バーリンの言う「積極的自由(positive liberty)」という概念の意味の一つ(哲学的には、語の「内包(intension)」)を指していることに気づくだろう。

政治思想的な補足を加えておく。バーリンが「積極的自由」という言葉で言おうとしたことの一つは、「自身の内面にこそ自らを縛る鎖が存在していると感じ、その束縛から解き放たれて、「本当の自分」になりたいという意味での、自由を求める心である。この積極的自由という言葉を用いて区別しようとしたものが、いわゆる「消極的自由(negative liberty)」である。筆者の解釈によれば、消極的自由とは、「他者からの介入の不在」である。

補足を続ける。バーリンが、積極的自由/消極的自由の区別を提出したのは、積極的自由を、危険な自由の観念だと見なし、その追求を封じるためである。何故なら、自らの内面にある鎖を断ち切って「本当の自分」になって自由になりたいという感覚は、実は、自らの中にある(動物的)本能や内面化された他者からの視線を否定し、それらを矯正したいという感覚に繋がるからである。従って、積極的自由観念に基づく政治思想とは、あるべき自由な人間像を提示することで、本質的に「人間性の改造」を肯定する政治思想となるのである。というのは、人間性の改造の思想は、他者に向けられるときには他責、自己に向けられるときには自己否定の論理に転化していく。あるべき人間像を掲げるナチズムとスターリニズム、あるいはマオイズムが、大きな人間的な悲劇をもたらしたことは周知の事実であろう。積極的自由の観念は、必然的に人々を自己と社会の改造へと駆り立て、政治参加への動機づけを与えるのである。

なお、積極的自由と消極的自由を論じた「二つの自由概念」講演は、後に「自由論」の一章として出版されたが、高度な専門書なので、哲学に馴染みがないと、読むのは難しい。バーリンの議論を要約した近年の政治学の教科書に川出(2024: 129-133)があるが、よくない。筆者の知る限り、牧野(1999)は、バーリンがここでの議論の射程を更に超えて、自由の観念について考察したことを論じている。

C. 無内包の私を見つけて

⑦ここまで来て、先に保留にしておいた「モテについて、そして雨宮が実は何を求めていたのか」についてを論じる準備が整った。

まず再論すべきは、雨宮の複雑さに惹かれてやってきた男たちにモテてても、雨宮が満たされなかったのは何故かという問いである。先ほど与えた答えによれば、「私の中の嫌いなところを好きだと言う人には、近づいて来てほしくない」というものであった。この感情を敷衍すると、「私の中の嫌いなところを好きだと言う人は嫌い」となる。何故なら、「私の中の嫌いなところ」とは、「自由」になるために矯正されるべき側面だからである。矯正されるべき側面に惹かれてやってくる者は、私を不自由なままに留めおこうとする敵、あるいは 、その「嫌いな側面」を、自分勝手に、望まぬ方向に矯正しようとする敵に見えるのである。

ではここで、雨宮が拘る「美」、端的には「顔」あるいは「容姿」に惹かれて人々が集まってきたならば(モテたならば)、雨宮はどう感じたかを考えてみよう。筆者の想像によれば、恐らく、最初は自分が肯定されたと感じるだろうが、やはり追い詰められていくだろう。

二つの理由が考えられる。第一に、人々を惹きつける顔を維持するために、すなわち、人々の視線を内面化し、やはり、例えば、自らの好きにメイクする自由が制約されたと感じ、不自由を感じるだろう。積極的自由を求める心は、満たされることがない。

第二に、「人々を惹きつける顔」を、永遠に維持することはできない。時間の経過に伴って、容姿は必然的に衰えるからである。そのような一過性の属性に基づいてモテても、いずれ人々が離れていくことを知っている以上、そのモテが空虚なものだと感じるのは絶対確実である。

従って、「モテについて、そして雨宮が実は何を求めていたのか」という問いに対し、モテが空虚である以上、雨宮が求めていたものが、モテではなかったことが分かった。

⑧雨宮が求めていたものを知るために、ある人をどのように記述できるかを考えてみよう。我々はふつう、ある人を、その性別/年齢/家柄/国籍/出身地/職業/年収/学歴/IQテストで測った知能指数/美醜・・・などの「属性(attribute and property)」の束として記述する(せざるを得ない)。

ということは、誰か人に惹かれていく時、まず何を手がかりにするかと言えば、その人の、エクセルなどのスプレッドシート上で表せるproperty(非本質的な属性)あるいはattributes(本質的属性)にならざるを得ない。我々は、その人の顔(や年齢や家柄や国籍や年収やその性格・・・)を目安に、その人に惹かれていくのである。

⑨他方で、視点を変えて、ある属性を有するが故に人を惹きつけてしまう側から考えてみよう。例えば、美形であるが故に、あるいは金持ちであるが故に、相手が私に惹きつけられて来ていることが明らかならば、その非本質属性(美形であることやカネ)が失われれば、その相手は私から去っていくだろうことも明らかである。その場合、その属性を有する者は、大勢の人に囲まれていても(つまりある意味でモテていても)、深い孤独感に苛まれることになるだろう。容易に変化する属性によって人を招き寄せても、無意味なのである。"Easy Come, Easy Go"と言われる所以である。ここまでが、雨宮が単なるモテに満足できなかった理由である。

⑩では次に、その人の本質的属性(の一つ?)と言える、その人の、「明るい」「楽しい」「根性がある」などの「性格」に惹きつけられるとはいかなる事態かを考えてみよう。例えば、「あなたの強さが好き」と言われて嬉しい人とは、どういう人かを考えてみよう。当然、自分の弱さを知った上で、厳しい状況において常に強くあろうとしてきた人であり、自分のことを見つけてくれた人に対して、親愛の念を覚えるだろう。

その上で仲良くなった二人は、お互いのことを好きになっていくと言えるだろう。しかし、「あなたのその強さが好き」と言われて嬉しかった側は、ある時、「もし自分が、厳しい環境に置かれなかったならば、私の強さを証明する機会はなく、従って、私の強さをあの人が知ることはなく、私を見つけてくれることはなかった」と、不安に襲われることになる。その意味で、本質的属性に基づいて、あの人が私を見つけてくれたとしても、やはり、"Easy Come, Easy Go"と同じ種類の感情に襲われるだろう。

⑪ということは、雨宮が真に求めていたものは、非本質的属性である容姿でも、本質的属性であるその性格でもなかったことになると推論できるだろう。言葉で記述可能なあらゆる属性に基づく好意は、彼女の孤独を癒すものではなかったと言えそうである。

⑫つまり、彼女(雨宮まみ)は、顔や性格によって雨宮を好きになる人が現れても、満足できなかったはずなのである。換言すれば、雨宮は、「雨宮まみ」という固有名詞の、「容姿」や「性格」といった「変数(variable)」を好きになってもらっても、それらは変わりうるものであるから、雨宮の深い孤独は癒されることはなかった、と断言できる。

⑬では雨宮は、自分の何を愛して欲しかったのか。確信をもって言えることは、雨宮は、エクセルのような、行列からなる表計算ソフトの画面上で記述可能ないかなる変数でもなく、その「雨宮まみと名付けられた、列方向に無限に続く変数の枠そのもの」を好きだと言って欲しかったのである。そのような男のみが、雨宮のその孤独を癒すことができただろう。そして、行方向に続く、「雨宮まみ」や「佐藤緋呂子」「富永京子」「えり子」・・・は、皆、「この私」を見つけて、愛してと言っているのに違いないのである。

⑭そして、哲学者の永井均の記述法を用いると、女の子たちは皆、そして男たちの一部は、「この私」、すなわち〈私〉を探して、見つけて、いわゆる「無内包の私」(永井n. d. )を愛して欲しいと願っているのである。つまり、究極のストーカーになって欲しいというのが、彼らの望みなのである。

⑮では、〈私〉を見つけて欲しいという声に対し、「その君」すなわち〈君〉を見つけるにはどうすれば良いのか。一つの手がかりは、属性に着目することであろう。例えば、その属性が、「絶望的なまでに愚か」であったりすれば、それは〈君〉ではない。

D. 終わりに: 政治を頑張る女のコはモテモテ!

⑯逆に言えば、自分が賢く、勇敢であることを示せれば、〈君〉が、〈私〉を見つけられる可能性は高まるに違いない。そして、自らの勇敢さや賢さを誇示するために最適な場こそ、公共善のために働く(政治をする)こととなる。何故なら、政治共同体みんなの利益になるよう、制度を設計し、政策を実行するのは、とても難しい、そしてとても危険な仕事だからである(積極的自由の追求が、左右の全体主義をもたらしたことを想起せよ)。

だからこそ、政治は、自らの知性と勇気を試す(鍛え上げる)にあたって、うってつけなのである。

だから、最後にこう言おう。

「女のコたちよ、政治をしよう!」
「男たちよ、政治を頑張る女のコたちを口説き落とそう!」

人の世に熱あれ、人間に光あれ
100年後の世界は、より美しくなっているものと、私は信じる。

ご清聴、ありがとうございました。

参考文献

雨宮まみ(2011)『女子をこじらせて』ポット出版.

雨宮まみ(2017)『女の子よ銃を取れ』平凡社(kindle edition).

バーリン、アィザイア(2018)『自由論(新装版)』(小川晃一・小池ケイ(金偏に圭)・福田歓一・生松敬三訳)みすず書房.

牧野広義(1999)「消極的自由と積極的自由について」『阪南論集 人文・自然科学編』34(4):89-97.

永井(n. d.)「無内包の現実性とは」永井均 ・入不二基義・森岡正博『永井均の無内包の現実性とはー現代哲学ラボ第4号』哲楽.

吉野朔実(2001)『瞳子』小学館.





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