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美しく舞い散る——蛍に酔う(中国への道⑤)

丹波篠山山中でラップを考えていたところ、母からラインが来た。
『そっちはちょうど蛍が見ごろのはず。気晴らしにどう? 風が無くて、ちょっと蒸し暑い夜が狙い目。』
別に鬱屈はしていなかったが、
『ありがとう。ちょうど今日がそんな感じだから、夜になったら行ってみようかな。』 
感謝しつつ、多分に社交辞令的な返事を送った。
だが、母にそんなものが通じるはずがなかった。
『そうするといい。8時ごろがいいと思う。じゃあ報告を待っているから』 
とんだ墓穴を掘ってしまった。
(そもそも『報告を待つ』ってなんだよ……)
とは思ったが、不必要な嘘は好きではないし得意でもない私としては、報告を待たれては行くしかなくなってしまった。

夜の8時過ぎ、私は出かけることにした。
山荘の外に出て気づいたが、当然といえば当然ながら、月が出ていたとはいえ山道は真っ暗闇だった。
そこで懐中電灯を手にして、私は山道を歩きだした。
目的地は、歩いて15分ほどのところにある川にかかった橋だった。
母によれば、そこが絶好の蛍スポットだとのことだった。
懐中電灯で足元を照らしつつ、独り山道を歩いた。
弱者男性どころか不審者にしか見えない自分の事は棚に上げ、
(変態やヤカラの集団にでも襲われたらどうしよう)
などという不安を覚えた。

あくまでも暗い山道をひたすら歩いていると、なんだか光がちらつきだした。
幻視の類かと思ったが、はぐれ蛍の光だった。
「はあ~、蛍かあ……」
思わず見たままのことを口走り、そのまま口を閉じることを忘れてしまった。
(蛍を見るなんて、いつ以来だろう)
という感慨がそうさせたのだった。
やがて我に返った私は、そういえば橋のある川に行き当たる前にも、自分の歩いている山道の反対車線側——右側のガードレール向こうにも川が流れていたことを思いだした。
すぐに私は反対車線側に向かい、ガードレールの向こうを眺めた。
そこには、大量ではなかったが、確かに蛍たちが飛び交っていた。
「ああ~、蛍だなあ……」
気の抜けた声を出しながら、しかし私は興奮した。
思わず駆け出したくなったが自重し、しかし若干の早歩きで私は橋を目指した。

その場所には私しかいなかった。
橋の欄干から身を乗り出し、私はもう声もなく、美しく舞い散る、明滅する蛍たちを眺めていた。
幽玄としかいいようのない光景が、見渡す限り広がっていた。
(そりゃあ、日本人、霊界も冥界も信じるわ)
などということを思った。
いちおう、
(ネタに使えるかもしれないから)
写真を撮ってみようとはしたのだが、どうにも上手くいかなかった。
やがて、
(撮れないからこそ、この光景には価値があるのだ)
と思い直し、そこからはただ幽玄を眺めることに集中することにした。
しばらくそうしていたところ、女性の二人連れが橋にやってきて騒ぎ出し、集中できなくなった私は引き返すことにした……。

蛍の余韻にひたっていた私は不意にふらつきを覚え、猛烈な吐き気に襲われた。
「オヴォエ、ボエ、ボエ……!」
嘔吐くだけですんだものの、その嘔吐きは止むことがなかった。
涙目になりながら、私は原因に気が付いた。
(蛍酔いだ)
そんな言葉があるのかは知らないが、ともかく夜の川面を無数に飛び交い舞い散る蛍たちを眺めることに集中し過ぎた結果、限界を超えた眼球運動のせいで酔ってしまったのに違いなかった。
語感としては悪くなかった蛍酔いだが、現象としてはただの悪酔いだった。
それからも私はボエボエ、ボエボエと嘔吐きながら、暗中の山中をヤカラの蛇行運転のような足取りで歩き続けた……。


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