異文化交流を前にしてあれこれと(中国への道㉖)
本田勝一という人にはいろいろな評価があるようだが、私はやはり傑物だと思う。とくに私が強い感銘を受けたのが氏の「文化相対主義」で、自分の育ってきた文化と違う文化との間には差異は存在するが、どちらが高級/低級というような関係は存在しない…という、当たり前といえばこれ以上に当たり前のことはないわけだが、それを当たり前のこととして簡潔に示してくれたのは、やはり素晴らしいことだと今でも思っている。
これから私は中国に行き、わかりやすい形で異文化交流が始まるわけだが、この異文化交流を突き詰めて考えていくと、究極的には自分と他者との関係にまで行きつく。人は一人ひとり異なっていて、絶対的に孤独な存在であり、だから絶対にわかりあえることはない——こういうと「なんという寂しいことを言うのか」と思われるかもしれないが、私はむしろこの考え方のほうが、他者を尊重できるととらえている。自分と他者は絶対的に違うと認識しておくことは、あらゆる意味での我の押しつけを他者に強要する危険を回避できることにつながる――あるいは、押しつけを自覚できることにつながる。たとえば私は他者を理解しようとするが、その理解の方法はあくまでも私のやり方での理解でしかない。合っているかもしれないし、合っていないかもしれない。もし合っていたところで、完全に正しいということもないだろう。そもそも他者を理解しようとする試みは、数学などとは違って「答えが誰の出したものでも一致する」ということがない。
私の場合は、ではあるが、歳を重ねるほどに逆説的に理解を深めることができた。
「相互理解は本質的に不可能だが、それを知っていればこそ共存できる」
このことをお互いに認識しておけば、相互不可侵条約のようなものが成立し、むしろ手を組んで仲良くやっていける。このことは個人間のみならず、異文化理解についても同様だ。異文化理解というものは「最終的には相手と絶対にわかりあえることはない」ということを徹底的・現実的に前提として理解しておくことから始まる。そのうえで相手を尊重し、妥協点を探し、手を打つことこそが大事だ。わかりあえなくていい。むしろ、なぜわかりあえなくてはいけないのか? かわぐちかいじ氏の超名言にあるように、「不完全なYESで充分なのだ」。相互理解などできなくても、仲良く酒を飲んで飯を食べ、歌って踊って笑えればそれでいいではないか。私は心底からそう思う。