美学は痩せ我慢か自己満足か
といおうかその両方だろう。
まったくもって美学というやつは、ない方が楽に生きられることは間違いない。
しかしながら、あれば仕方がなく、かくいう私にもそれがある。
わかりやすくファッション的な美学を挙げると、
① どれだけの酷暑であろうと、外出時にはハーフパンツの類を着用しない。
② どれだけ実用的であろうと、非常時以外にはリュックサックの類を用いない。
という二点があり、この痩せ我慢と自己満足の美学を貫いている。
こだわりのない人からすれば、「ひたすらどうでもいい」と思われることだろう。
そう、実際的にはどうでもいいことこの上ない、それがこだわりであり美学だ。
正確には②もそこ由来なのだろうが、特に①の【どれだけの酷暑であろうと、外出時にはハーフパンツの類を着用しない】は、思春期という「そういうお年頃」に目覚めてからかぶれ倒してきた「ロック的ファッション」の影響というか呪縛だと思う(*そもそも、そのロック的ファッションにしたところで私の独断と偏見に満ちており、つまりは勘違いの産物といえるのだが)。
酷暑も飛び越えてそろそろ「死暑」に近づいてきた観のある昨今の異常気象、ハーフパンツ姿の人々を「ああ、楽そうだなあ」と眺めつつ、「だけど、ギターウルフのセイジさんなんて、エジプトですら革ジャン革パン姿でライヴしていたじゃないか」と己を鼓舞し、バカげているとは思いつつも美学を貫き続けている。
セイジさんは、私の永遠のヒーローだ。
しかしながら、「どうせなら、『一切にこだわらない』という美学のほうが良かったかなあ」などとも感じてしまうあたり、どうも私はヒーローになれそうにはない。
いや、自分で記しておきながらアレだが、「一切にこだわらない」という美学のほうが貫くのは難しいと思う。むしろ至難とさえいえる。
こだわりも 凡庸ならば 句もパクリ