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鴻英良は広場だった

今年を振り返るために書く。鴻英良さんのことから始めたい。彼の幅広い見識と活躍については僕なんかより山ほどお付き合いのある方々が語っているので、僕はごく私的なことだけを書き連ねておこうと思う。



父とほぼ同い年の鴻さんは、僕にとっては東京の父親のような存在だった。初めてお会いしたのは大学院の授業。これほどまでに言葉を豊かに操り、枝分かれした細部にまで養分を行き渡らせ、演劇という「現象」について深層に連れて行ってくれる師はいなかった。佐伯隆幸という師と出会わなければ、その出会いもなかったわけで、改めて学習院を経由したことが僕の演劇との関わりをある意味で特異にしてくれたのかもしれないと感謝している。



 鴻さんはいつも古代ギリシアを携え、20世紀のあらゆる思想哲学を纏い、それでいてどこにでも出かけ、あらゆる世代と変わらぬ姿勢で言葉の豊穣の海を渡っていた。
 それが面白くてF/Tにも、渋谷の雑居ビルで行われる怪しげな催しにも付いて行った。ゴールデン街に初めて行ったのも鴻さんに連れられて、だ。荻窪に住んでいた僕は、吉祥寺や西荻でなぜか2人で終電過ぎまで飲んだこともある。

 鴻さんも不毛だからよせば良いのに、学習院の講義の後、目白の居酒屋で佐伯隆幸としばしばもめた。印象的でよく覚えているのは、例の白ワインでしたたか酔った佐伯先生が「汚いものは舞台にあげてはならないんだ」と言い出し、鴻さんの目の色が一瞬変わった。「佐伯さん、それは反動ですよ」ヤン・ファーブルの紹介者みたいになっている佐伯先生がそんなことを言い出すなんて、という皮肉めいたニュアンスだったが、その鋭く厳しい視線を覚えている。僕はのちに佐伯先生の美意識の深層に「原爆」があることを同郷の人間として直感的に知ることになるのだが、この時はなんでも許容した上で「また揉めてしまったよ」とニヤニヤする佐伯先生にしては、嫌に変な断罪の仕方だと感じたものだ。それに対して鴻さんの、何物にも縛られない、演劇の境界を軽やかに越え、かつ巧みに構造を分析し、いかなる表現をも許容しながら存在意義を見出す温かさというか、一方で演劇に対するある意味冷めた客観性を併せ持った特異な人として魅せられた瞬間だった。

僕が今の仕事に就いてからも、極私的な立場でしばしばお世話になった。
2020年の東京芸術祭の学生鑑賞プログラムで池袋西口公園野外劇場(現グローバル・リング)での『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』を観劇した玉川大学および日本大学の学生による座談会が開催された。

コロナ禍真っ只中、座談会を限られた学生とのみ隔離された会議室で行わなけばならず、そのほかの学生は芸劇のロワー広場で同時中継で繋ぐ、という試みだった。いくら2元中継とはいえ、メインが会議室であることは否めず、どうにかロワー広場がメインの話題にならないか、と芝居が始まる前から頭を抱えていた。

そこへ開場中にふらっと歩いている見覚えのある姿。鴻さんだ。

こういうとき、名コーディネーター鴻さんならどんな仕切りをするかな、と下心満載で挨拶すると、かつて如月小春が実行委員長を務めていたアジア女性演劇会議で一緒に仕事をした時期がある、と話し出した。

これは、ぜひ聴きたい。

しかし予定されたゲストではないから会議室には呼べない。事務局も慣れないライブ中継で慌てるし気を使う。

「…終演後、〇〇時ごろに、ロワー広場を偶然横切ってくださいませんか。偶然、鴻英良が通ったので如月小春の想い出を語ってもらう、という芝居をしていただきたいです。お礼は後で別途僕がしますので」

面白そうだ、と悪だくみに加担してくれた。あの鴻英良に「演技」をしてもらったことになる。おかげさまでゲストを迎えて、極めて重要なエピソードを提供してくださったことで、広場が話題の中心となり、意義深い結論に至った。詳細は以下の記事に譲る。


「極めて重要な」は鴻さんが好んで用いたフレーズだ。密かに真似している。

この時の鴻さんの言葉をヒントに、2021年3月にスタジオ収録演劇として如月小春『夜の学校』を創った。


座談会が終わり、片付けも済んで、時間が経ってしまったロワー広場に駆け下りると、寂しそうに待っていてくれた。
結構、寂しがり屋だったのかな。
最後に長い時間を一緒に過ごしたのは、昨年の6月に近畿大学東大阪キャンパスで行われた日本演劇学会全国大会でのオンライン対談「ピン・チョン氏に聞く〜アメリカ演劇と民主主義」である。
こちらも内容は以下に譲る。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjstr/78/0/78_85/_pdf/-char/ja

最終日に聞き手として登壇する鴻さんは、近大東大阪キャンパス内にある「ゲスト・ハウス」に泊まることになっていた。新大阪に宿を取った僕は、大学の授業を終えて2日前の前夜祭から顔を出していた。初日の夜の懇親会で挨拶をした鴻さんが会の後、所在なげにロビーにいるのを発見した。僕は鶴橋に繰り出す集団に属していたのだが、寂しそうな鴻さんを放っておけなかった。

聞けば最終日にニューヨークとオンラインで繋ぐため、明朝は8時にはスタンバイしておかなければならないという。朝が早い。あんまり鴻さんが早朝から活動している印象がなかった。ご本人もそれが不安らしく、ゲストハウスに1人で泊まっているから起こして欲しいと言われた。僕、新大阪からモーニングコールしに来るの!?恩師に頼まれれば断る理由はないので、覚悟を決めて引き受けた。

ゲスト・ハウスまでの道すがら、いつものようにたわいもない話をした。思えば稀有な時間だったのかもしれない。

学会の帰り。混雑する日曜夜の新大阪でだって偶然また会えたくらいだもの。そう思って連絡先は知っていたが、メッセージしたのはこの翌朝のモーニングコールだけだった。

演劇に携わっていれば、不思議といつでも劇場で会える。そう思っていた。だからすれ違っていても平気だった。

悔やむ。

あの役者より良い声で、昂揚するとやや上擦る声で、いつもどこでも一人でふらっと分け入っていき、朗らかな声で鋭い批評を展開し、周りに人が自然と集まっていた。それでいて極めて孤独で、私生活をまるで明かさない人。

懐深く、あらゆる時代のあらゆる表現に寛容な鴻さんの演劇感覚に触れた僕たちのような人間は、次世代に「演劇はこうあるべき」と狭い見識の中で自分の境界を押し付ける、器量の小さな演劇人にだけにはなってはならない。

そう、鴻英良こそ、広場だった。

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