やっぱり群像劇が好き
やっぱり猫が好き的なオマージュなタイトルを付けてみたけども。三谷幸喜の作品で言えば「君となら(斉藤 由貴 ver)」が一番好きな僕である。
さて、表題の「群像劇」に関して。
定義はちょっと難しいんだけども、圧倒的主人公が圧倒的ヒロインと恋いに落ちてアレして、みたいなことじゃなくて、複数の登場人物が同程度ストーリーに貢献して、それぞれの背景やドラマがちゃんと描かれている作品、ってことにしておいて欲しい。
僕が群像劇が好きなのは、自身が演劇経験を持つこと、脚本演出の経験を持つことがかなり大きい理由だと思う。
大きな売れている劇団ではなく、学生主体の地方の小さな劇団の話なので、他の場所、他の団体だと話は変わるかもしれないけども、僕の場合ってことで話を進めよう。
■ 台詞が少ないと、ヒマ
演劇ってのは面白いもので、台詞がたった1行の配役だったとしても、その人がいないと、幕が下りない。
つまり、練習が出来ない。
したがって、台詞の分量に関係なく、基本的には全員集合スタイルで練習が行われる。
もうおわかりだとは思うけども、台詞がないと、ヒマなのだ。恐ろしく。
もちろん、部分的に繰り返すような練習で効率的にシフトを組んで役者やスタッフの出席をコントロールすることは出来る。
でも僕やなんだよなー。君、台詞が少ないから稽古あんまり来てもらうのも申し訳ないし、週1でいいよとか、やだったんだよなぁ。
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■ 芝居が上手いヤツに限って人間性が満点ではない(ちょっとアレ)
これはまあ、偏見も含んでいるけど、たいていはそう。
芝居が上手いってのは、心の解放が上手な場合が多い。他人の気持ちや心の機微が理解できるからと言って、それを正確に表現出来ることとはほぼ、無関係。
有り体に言って、だいたいわがままなのだ。逆説的にいうならば、わがままになれるからいい芝居が出来ると言っても、まあ、過言ではない。
やなヤツでめっちゃムカつくけど、仕事が出来るからぐぬぬみたいな人物にはよく出会う。
欲求に忠実である、ってことは、知的・美的生産において重要で、創造的な活動に、人間らしさや思慮深さはたいていの場合、邪魔になる。
人間を描かなくていいのか? それが、面白いことに、「人間を描くこと」と「人としての矜恃」みないなものに相関はないんだけど、「人としては終わっているけども芸術家として一流」な人物の作品が、誰よりも深く鋭く人間を描いてたりするもので、なんというか結果描けちゃうのだ。
知らなくても出来ちゃうのだ。すごい人だと。
なので、いい人だから芝居が上手いは、ほぼ成立しない。いい人だからいい演出が出来るならば、ギリセーフだけど、いい演出家も大抵は変人奇人と相場は決まっている。
主役クラスの配役にあたる人は、芝居自体はず抜けていて人間的な魅力はすごいんだけど、公共心とか道徳心とか献身性とかとは大抵相性が悪い。
シンプルに言おう、練習サボったり、手を抜いたりする。
作品としてのクオリティーを上げるために、上手な役者を上手く使うのは有効で合理的なのだけども、脚本を書く段階で、うわぁー、あいつに台詞を書きたくねーなーとなる僕もいる。人間だもの。
で、芝居は上手くないけども、練習にはちゃんと参加してくれて、チームへの貢献度が高い人に、とてもとても、申し訳なくなる。
とはいえ、趣味の劇団とは言えお金を取って上演する以上、金額以上の満足度を提供して、次回公演にも足を運んでいただかないと、続けられなくなるわけだ。
むむ。
■ という感じで芸術とはシビアで
こうなってくると、どういう手段に出るかというと、登場人物の数が5人ならば、台詞の振り分けを5人均等に20%にする。
もしくは台詞の振り分けには差があったとしても、全員に見せ場を作って、露出のさせ方でつじつまを合わすのである。
もちろん、上手いヤツをつかって好き勝手させるのが、クオリティーをあっさり上げるためには有効で話の早い手段だけども、稽古に来たけど、自分の出演シーンまで到達せずに、一言も発することなく帰らされるような人がいていいはずが無いじゃないか。
僕を含むたいていの人が、ドラマチックではない毎日を過ごしているのに、メインストリームではない道を歩いているのに、自力でどうにでもなる「物語」のなかにさえも「脇役」の概念持ち込んでどーすんだよ。
現実は厳しい。物語の中くらい、甘々でもじゃないか。
■ 群像劇が好き
さて、話は変わって、僕の好きな映画「パルプ・フィクション」について。
僕の群像劇好きのルーツは、まず間違いなく、この映画にある。
めちゃくちゃなのだ、2時間半近い上演時間中ずっと、めちゃくちゃなのだ。
とてもじゃないが、上品とは言えない。
各々が好き勝手やって、好き勝手やった結果、バタフライエフェクト的に別のエピソードのどこかの何かに影響しているんだけども、うーん、そういう巧みさはわりとどうでもイイ。
ジョントラボルタの変な髪型とダンス、さえないジョークを紹介するユマサーマンのチャーミーさ、サミュエル・L・ジャクソンの聖書を読み上げるシーン(映画史上一番かっこいいと思う)、いい話なんだか悪い話なんだかよくわかんけど、とにかく最高に笑えるブッチ編全般と、妙にエロいファビアン。
物語の始まり方、締め方、登場人物たちは常にベストを尽くそうとひたむきなのに、その姿全てを滑稽化させる劇構造、屋台骨としての音楽。控えめに言って、全部最高。
全方位で、下品でシニカルで、笑える。胸がすく。三谷幸喜の劇作品とは別ベクトルだけど、劇場を出た瞬間に内容忘れるけど、みてる間は腹抱えて笑ってられるあの幸福感。あの幸福感は、同じなんだよ。
時期的には少し前に公開された「レザボア・ドッグス」も群像劇ではあるし、この映画も好きだけど、やっぱり「パルプ・フィクション」は理想的な群像劇として、今も僕の中で不動の一位を獲得し続けている。
「12人の優しい日本人」や「キサラギ」も好きだけど、やっぱ「パルプフィクション」だな、うん。
■ 群像劇で生きていく
書き始める前は大好きな「パルプフィクション」について盛大に論じたろうや! と思っていたけども、雲行きが怪しいぞ(笑)
まあ何とか続けよう。
僕は僕自身が「マイライフ」というメガ超大作の主人公のはずなのに、なんとなく「脇役」として生きている。いや、本来はどう考えても「主役」なのに、「名脇役」あたりのポジションで、いいところ「助演男優賞」にノミネートが最高の目標みたいな生き方に慣れすぎてしまった感はある。
最近では、本来持っていたけど全然使ってなかった「主役」のポストを子どもたちにあげようとすらしている。
由々しい。
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世界に風穴を開けたい!とか言うほどの高い意識は持ち合わせてないけども、意識低くてもハーレムれるのはラノベの中だけであることくらいは知っているつもりだ。
スターウォーズには出られなくともパルプフィクションならば、まだ芽はある。
日々たくさんの蝶が巻き起こした風の残滓を浴びつつ、僕も誰かにとってのインパクトになれるように、群像劇の中で、エピソードを担当しよう。
自力でどうにでもなる「物語」のなかにさえも「脇役」の概念持ち込んでどーすんだよ。である。
風が吹いたら桶屋が儲かる例の一連の逸話の、せめてソバ屋の店主くらいのポストで出演を果たしたいとは思っているのだ。
自己ベストマガジンに収録するため全文読めるようにしました。
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