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あの日見た犬の名前を僕たちはまだ知らない。

夏、午前2時に事件は起こった。


仕事の帰り道、家まであと50mというところで、暗闇からこちらをジロリと見る生き物がいたのだ。


長時間の残業でボーッとしてるんだろうか。目をこすって、もう一度焦点を合わせてみても。

・・・そこにはハァハァ言っている・・・柴犬がいた。


いくら茨城県が田舎だからって、柴犬は一人で散歩をしない。しかも午前2時に。ちなみに踏み切りに、望遠鏡をかついでいく人もいない。

いくら茨城県にヤンキーが多いからって、首輪からゴツい鎖をジャラジャラ引きずる犬はいない。どうやら家で繋がれている鎖を外して、逃げてきたみたいだった。つまるところ、脱走兵ならぬ脱走犬だった。


その犬をよく見ると、なんだかヘトヘトで。

「ちょっと待っといて」と犬に伝えて、僕は自動販売機にいろはすを買いに行った。僕は無類の犬好きなのだ。

赤の他人、いや赤の他犬に初めて水をおごった。ガブガブ飲む。飲み終わった後に見せた「もうないんか?」という表情がかわいい。


とにかく犬は水を飲むと元気が出たらしく。脱走を再開した。

「いやいや、自分、今、何時かわかってる?もう2時やで。」

散歩中の犬はとにかく聞く耳をもたない。シカトを決め込んでる。ヒトよりも4倍も耳がいいくせに。

散歩の帰り道の犬は、だいたいごねると決まっている。でもこの犬の足取りはとても軽やかだ。つまり犬は明らかに散歩を謳歌している。

お前、絶対これ家に向かってないやんけ!

その犬のステップはもはや羽生結弦だった。

となると僕も覚悟を決めるしかない。知らない犬と深夜の逃避行を決め込んだ。脱走犬とスーツ男の逃避行。午前2時。飼い主が見たら即通報ものだった。


犬とは祝福の体現者だと思う。人間から見て、犬ほど世界を祝福するのがうまい生き物はいない。

毎日同じドッグフードを食べていても「ウマァァァァァァァ〜〜〜〜!!!」
たまにごちそうをあげると「超ウマァァァァァァァ〜〜〜〜!!!」ってなる。かわいい。

毎日同じ散歩道でも「楽しぃぃぃぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜!!!」、
ドッグランとか連れていくと「超絶楽しいぃぃぃぃぃぃぃ〜〜〜!!!ンfイナ言うhギアhjfはぎへおいh〜〜〜!!!」ってなる!!!超かわいい。

彼らほど毎日の生活を楽しむ生き物を知らない。それを表現することに全力を注いでいる生き物を知らない。

僕たちは犬たちから世界を祝福する方法を、幸せを表現する方法をもっと、ならった方がいい。


話がそれた。

なんだかんだ、本当になんだかんだ、30分くらい脱走犬と散歩をした。もちろん、家にはつかなかった。

これいつになったら終わるねん。どこがゴールやねん。これって朝まで散歩するパターンのやつ?朝がきたら解決するんやっけ?
そういう気持ちが湧いてくるのも無理はないよね?僕は電話を手にとった。

「もしもし警察ですか?あの、家の近所に犬がいてですね。あ、住所は〇〇あたりなんですけど。いや、知らない犬です。この犬ものすごく歩くので、場所変わっちゃうかもしれないです。いやいや、こちらから見つけるので、とりあえず近くまで来てもらっていいですか?」

完璧な電話。パーフェクトヒューマン&ザ・ドッグ。


そういえば中学生の頃にも、突然、ウサギと遭遇したことがある。大阪のそれなりの街の駅前で。

「っちょ!おま!え?・・・ウサギ?」

びっくりした。たしか、友達とポケモンをしていたときだ。

僕たちはめっちゃ偉くて、すぐに警察に電話した。すると「飼い主が見つからなかったら、殺処分になっちゃうけどいい?」と言われた。

俺たちはウサギを助けたいと思って電話したのに。社会は厳しすぎる。

その判断を中学生にさせるのむずくね?出会って3分くらいの、このウサギの命運を俺らが握るっておかしくね?生殺与奪の権とか持ちたくねえ。

そんな風に、あーでもない。こーでもない。と悩んでいるうちに、とてもイマイチな感じのお兄さんが来て。

「ソノ、ウサギ、僕ノデス。散歩シテルンデス。」とボソボソと言われた。

お、おう。すまん。さっきまでこのウサギを殺処分にするかどうか悩んでいたのは内緒やで。お兄さんをイマイチを思ったのも内緒やで。

ウサギを殺処分にしなくてよかった。


犬の話に戻る。

警察が来た。いや、僕らを探している警察を、僕と犬が見つけた。

警察は言う。「お疲れ様です。この犬どうされたんですか?」

俺が聞きてえよ。

「いや、家の近くで休んでいたところを保護しまして。」

「あーそうなんですね。このまま歩かせたら家に向かったりしないかな?」

ということで僕は、犬と警察を散歩させることになった。一匹増えたと思ったのは内緒だ。

犬とスーツと午前2時と警察。ひどく事件の匂いがした。


犬と警察を散歩させてあげたけど。結局、警察も家を見つけるのは諦めた。最終的に犬はパトカーに乗っていった。脱走犯の最後はお縄になると決まっている。

「家にちゃんと帰るんやで」最後に犬にこう伝えたけど、あいつは(たぶん初めての)パトカーにテンションが上がって、こっちの話を聞いていなかった。

警察には「飼い主が見つからなかったら殺処分になるけどいい?」と聞かれた。生殺与奪の件をまた握らされた。社会の厳しさは変わってなかった。

でも。

「飼い主さんが見つからなかったら、処分の前に連絡ください。」

社会は変わっていなくても、僕は強くなっていた。殺処分は嫌だ。


『砂漠』という伊坂幸太郎の作品に保護犬の話が出てくる。西嶋という大学生が、たまたま目についた保健所の犬を保護する場面だ。

北村「これからも保護期限の切れる犬が出てくるたびに、西嶋は犬を引き取りにいくわけ?」
西嶋「まさか、どうして俺が全部の犬を助けなくちゃいけないんですか」
北村「はあ」
西嶋「たまたまですよ、今回は見ちゃったからね、気になったんですよ。次からはもうあのホームページは覗かないことにしたし」
北村「でもさ、西嶋、その一匹だけ救って、後は見て見ぬフリというのも矛盾しないかな?」
西嶋「矛盾しちゃいけないって法律があるんですか?」
北村「ないけど、でも、じゃあ、いったいどこで飼うつもりなんだ」
西嶋「それを相談したいんですよ、北村」

たまたま出会って、たまたま散歩した犬はもう、僕にとって赤の他犬ではなかった。


犬との冒険の翌日からも、普通に仕事も毎日の生活もあって。でも僕は犬のことが頭から離れなかった。

飼い主が見つからなかったらどうしよう。ペット可のマンションに引っ越したらいいのかな?どこかの動物保護団体に連絡した方がいいかな?

そんなことばかり考えていた。


でも、そんな不安は解決した。

2〜3日経ったある日、飼い主さんからお礼の電話がきたのだ。

ほんっっっっとうに良かった。

ナカガワさんと言う女の人だった。犬と再会できたとのこと。前日の雷でびっくりして逃げ出しちゃったみたいなんだよね。と言っていた。

「雷とかあっても逃げ出さないようにしてあげてくださいね」僕から犬への最後のプレゼントだ。


その後、僕とナカガワさんはねんごろな関係になり、・・・ということもなく、僕と犬の物語は終わった。ナカガワさんの声はどう考えてもおばちゃんだった。ハッピーエンドになるんだと思う。


これは実際に5年ほど前にあった、僕と犬の冒険の話だ。

あれから犬には会えていないけど、元気にしているだろうか。性懲りもなく冒険に出ているだろうか。

僕も茨城県から離れた場所に、引っ越してしまったし、もうキミと会うことはきっとない。

それでも、僕はこんな風にキミとの楽しかった逃避行を覚えている。キミも夢か何かで、あのときのことを思い出してくれると嬉しい。

キミと僕の生活に祝福あれ。

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