日常を変えていく実験の場としての「フェス」。 憂さ晴らしではない #フェスティバルウェルビーイング の可能性
フェスとはなにか。
ヒップホップとはなにか、ロックとはなにか。そんな問と同じように、答えをだすことは、なかなか難しい。10人いれば、10人なりの思い入れがあり、そこから導かれる定義があるはず。
一般的な「フェス」と、僕が考えている「フェス」間にはギャップがある
「フェス」の一般的なイメージはどんなだろう。最近は、テレビで「夏フェス特集」なんてのが組まれることも多い。その映像の構成を想像してみる。
↑Unsplasで「Festival」と検索したときに、一番始めに出てきた写真
大きなステージで演奏するバンドが何組かアップで映し出される。広大な客席に人がたくさんいることが分かるように、そこからグィーっとカメラを引いていく。音楽に合わせて、みんなが上げた手を前後に動かしている。
転換して、会場内のごはんエリア。長蛇の列に並ぶ人々を写したあとに、フェス飯のアップ。
転換して、草原で座っているカップルの後ろ姿、グループで騒いでいるパリピに声を合わせて「サイコー!」とか言わせて、小さい子どもを何人か写して…。
こんなかんじだろうか。ここからは、ウェルビーイングも実験もメディアも見えてこない。きっと僕が言っている「フェスティバルウェルビーイング」は、世の中のフェスのイメージから見えてこない。
東日本大震災がつくった、僕のフェス観
だから、僕にとっての「フェス」の話をしておかないといけないと思う。
僕にとってのフェスティバルライフが本格的にスタートするのは、2011年。そう、東日本大震災があった年だ。
2011年2月、それまで小さなフェスにはいったことがあったけど、そんなにフェス好きというわけでもなかった僕が、様々な縁でアースガーデンという日本にほとんどない「野外フェスに特化したイベント制作オフィス」である「アースガーデン」に入社した。
のほほんと文系ライフを謳歌してきたぼくは、体育会系で過酷な野外の現場仕事でぐちゃぐちゃに揉まれることになる(笑)。
2月に入社して、3月に地震。アースガーデンは、5月の半ばに主催の野外フェス「Natural High!」の開催を控えていた。様々なイベントごとが自粛されていく中で、アースガーデンの代表の南兵衛は、下記の文章と共に、開催を宣言した。
No Nukes!! No Nature, No Future!
僕たちの自然賛歌を、共に。
生きることの根本を、誰もが問いなおす時代がはじまりました。人間が生き物として生きる根っこは「自然」です。今、人はあらためて自然と深く出会い、人と人も深く交わる時です。
最高の自然にめぐまれた会場、山梨県道志村。豊穣な山々にだかれる水源の村だからこそ自然や生活文化に学ぶことが山ほどあります。これから原子力発電に代わっていくものも、すべて自然からのソフトエネルギーです。
すばらしい自然と、美しい音楽と、たくさんの講座/ワークショップと、気持ちのよい仲間たち。共に、新しい時代に生きる知恵を学び、カラダを動かし、チカラを磨き、大きな“自然賛歌”を、響かせます。あなたが暮らしたい未来を深く考え、新しい時代に生きる、最初の一歩を見つけてください。
いつでもどこでも、毎日がナチュラルハイでいられる時代が来るように。
フェスと日常は「つながっている」
僕のフェス観を形作ったのは、最後の部分だ。
いつでもどこでも、毎日がナチュラルハイでいられる時代が来るように
Natural High!とはなにか。文面の中では、下記の文章がその説明だ。
すばらしい自然と、美しい音楽と、たくさんの講座/ワークショップと、気持ちのよい仲間たち。共に、新しい時代に生きる知恵を学び、カラダを動かし、チカラを磨き、大きな“自然賛歌”を、響かせます。
こんなNatural High!な状態に、いつでもどこでもいられる時代が来ますように…と、みなさんに呼びかけ、開催を宣言したわけだ。
そこらじゅうで音楽が鳴り、普段寝泊まりしない場所で夜を明かし、奇想天外なアートや、偉大な自然に抱かれて過ごす。フェスは「非日常空間」だ。
しかし、非日常と日常はつながっている。
ここからが非日常、ここからが日常、と明確な線引きがされているわけではない。非日常と日常の間はグラデーションになっていて、日常の自分と非日常の自分は切り離せない。
一般的なフェスのイメージには、「日常の憂さ晴らし」的なニュアンスが含まれていると思う。日常のストレスを忘れるために…日常の抑圧から開放されるために…そんな悲痛な願いを持つことは間違いではないだろうが、実際には叶わない。だって、日常のストレスで疲れ切っていてたら、フェスの中で遊び倒すことはできない。日常をネガティブに生きている人は、フェスに来て一時的にポジティブになっても、日常に戻ればまたネガティブになってしまう。それってなんだか虚しい。
そんな虚しさを文章にしたことがある。
数年前のフジロックのこと。前夜祭に参加するため、木曜日の朝から並んでいる来場者の横を通ると、来場者のひとりが、同行者に向かってこう言いました。
「木曜日の朝からビールを飲むこの背徳感!最高じゃないですか!」分かるなぁと思いつつ、反面、寂しさもこみ上げてきました。「背徳感」の裏には、日常の抑圧やストレスが垣間見えてしまう。フェスティバルが、日常のマイナスを埋めるものであるとしたら、なんだか虚しいなと感じたのです。
フェスティバルに参加している日なんて、1年のほんの数日。360日ほどの日常のほうが幸せな方が、遥かにヘルシーです。フェスティバルは非日常空間と言われますが、非日常は日常とセット。非日常があるから日常があるわけで、それは断絶しているのではなく、グラデーションでつながっています。
フェスティバルは楽しい。でも「楽しい」だけでなく、もっと根本的な「人の幸せ」にフェスティバルが貢献できないだろうか。こんなにもたくさんの人を魅了し、世界中で開催されているのだから。
「フェスとはなにか」には、人それぞれ、いろいろ思いがあるだろうけど、僕にとっては「日常を忘れるための憂さ晴らし」ではなく「日常をより充実させるための非日常」だった。
Natural High!の開催後、僕自身の言葉として、こんなコメントを残していた。
あなたの毎日に、いつもNatarual High!がありますように
Natural High!が終わると、いつも思うことです。
豊かな緑、空の青、風の涼しさ、川の冷たさ、夜の暗さ、朝の清々しさ。そういった道志の森での体験一つ一つが、実は日常とさほどかけ離れていない場所にあり、しかも、それは日常の中にも感じられることのように思います。
Natural High!は、遠いようでとても近い、僕達のこれからの生き方を提案しています。だから、この土日が終わったからNatural High!が終わったわけではないのです。道志の森で繰り広げられたライブ、トーク、ワークショップ。その全てに幸せへのヒントがあるはず。
あなたの毎日に、いつもNatarual High!がありますように。
本当にそう願っています。
広報担当の中の人より
理想の街、実験の街をフェスがつくれる
フェスと日常はつながっていることを意識すると、フェスの可能性が見えてくる。
フェスは野外コンサートではない。
様々なアーティストが集い、複数のステージで同時進行で行われるライブ。多くの人の腹を満たすフードエリア。ライブにいかない時間も濃密に過ごすことができるマーケットエリア。寝泊まり、休息するための、宿泊エリア。多くの人を安全に受け入れるための電気や水道、トイレ、道路などのインフラ。夢の世界に迷い込んだようなアート、装飾。
こういった複数の要素が絡み合い、期間限定の街を作り上げるのがフェスティバルだ。
来場者は、身体全てをつかって、主催者がつくりあげた幻想の街に迷いこみ、高揚し、疲れ果て、眠る。全力で体験する。
つまり、理想の街、実験の街をつくることができる。
例えば、アメリカで開催されている「バーニングマン」というフェスでは「貨幣経済」に基づく商売が禁止され「贈り物経済」での生活が求められている。期間・区域が限定だからこそ、これからの社会の実験の場としても使える。
例えば、愛知県・蒲郡のラグーナビーチ&ラグナシアで開催される「森、道、市場」は「いいもの」が並ぶ「マーケット」を集めて「いいものだけがある街」をつくる壮大な実験と言っていいはず。いいものが並ぶ擬似的な街をつくると、人々はどんな反応を示し、どんなものが売れていき、どんな化学反応が起きるのか。
ー 相当苦労して運営してることはわかってきたんですが、森道のコンセプトって何なんでしょう?
「ひとつは『いいものを体験してほしい』ってことです。たとえば添加物を使わずに作ったいいみりんって、味が全然違う。体験してもらえばファンになるはずなんだけど、『いいみりんです』だけ言ってても人は来ない。だから、音楽で人を呼んで集客するって発想です」
ー 音楽で集客!他のフェスにはなさそうな発想ですね
「うちはあくまで『市場』なので。市場が安定したほうが、長く続けられると思うんですよ。それといいものの良さは若い子にこそ知ってほしいんです。森道の今のメインの客層は30〜40代だけど、そこだけに伝えてたら、10年後食いっぱぐれちゃうから」
ー下の世代につなげるってことですね
「まあ、カウンターカルチャーですね。愛知って元々ヒッピーが多い土地柄で、オーガニック志向みたいなものも強いんです。ただ、それを別にお客さんに押し付けるつもりは全くなくて、トップレベルなものをリアルな場で共有したいってだけです」
>>人気フェス「森、道、市場」の裏側には主催者の「熱狂」があった
まだまだ「社会に実装する前の実験としてのフェス」は数が少ない。ただ、アーティストはこういった可能性に気づきつつある。
例えば、コーチェラ・ヴァレー・ミュージック & アーツ・フェスティバルにおいて、黒人女性初のヘッドライナー(大トリ)をつとめたビヨンセは、黒人であること、女性であることにはっきりと堂々とメッセージを見出し、圧倒的なライブを見せつけた。
ビヨンセは、この作品のなかで、いまは存在していないオルタナティブな国の姿を夢見ている。HBCUは、ビヨンセのワカンダなのだ。ただし、それは、現実の領土を要求する国家ではなく、「近代国家」という制度によって虐げられ植民されてきた、有色人種と女性という見えざる領土に旗を立てる、「アンチ国家」としての国なのかもしれない。その幻の国、見えざる大陸がたった二晩だけ2時間ずつこの世に姿を現した、その貴重な記録をビヨンセは「里帰り」と名づけた。
特別寄稿エッセイ 若林恵「ビヨンセの帰還 HBCU・ビアフラ・ワカンダ」
憂さ晴らしとしてのフェスのあり方を否定はしない。様々なフェスがあっていいと思う。でも、僕がフェスに夢中になっているのは、そこじゃない。
「日常をより良くするためのフェスのあり方」がある。この8年ほどフェスを仕事にして、その手応えというか、実感がある。それは地方創生の文脈でフェスが開催されたり、環境教育の意味合いを含んだフェスが開催されていることからも分かる。
フェスのメディアとしてのパワーは圧倒的だ。来場者は、目も耳も鼻も手も足も、全てをフェスに持っていかれる。ケータイが通じる、通じないとか、そんな些細なことなんかでは左右されないほどの濃さをもって、メッセージを受け取る。
そんなに圧倒的なメディア力があるなら、人の幸せに貢献したい。社会がより良い方向に向かうお手伝いがしたい。
「フェスティバルウェルビーイング」について、考え、実践し、考察していく。世界中の事象をみて、学んでいきたい。