火曜日のルリコ(6)

「私も、フセイン君の名前がどんな漢字だったか覚えていません。でも、いつも亜利君と一緒にいましたよ。うちのイチゴ狩にも、よくファーティマさんと一緒に来てくれましたよ」

「そうだったね。フセインは弟と言ってたけど、日本語がほとんどしゃべれなかったよ。いつも亜利と一緒にいて、二人で何かわけのわからない言葉をしゃべってたね。きっとイラン語なんだろうね。そのうち、少しずつ日本語を覚え始めたけど、そんなとき交通事故で死んじゃった」

「交通事故?どんな事故だったんですか」

「僕は幼稚園で、交通事故で死んだ、と聞いただけだけなんだ。詳しいことは知らないよ。ある朝クラスの先生がみんなの前で、亜利君のお母さんと弟のフセイン君が死んで、亜利君も大怪我をしたとみんなの前で言ったんだ。みんなびっくりしてたよ。そのあと、確かクラスの全員で亜利の見舞いに行ったよ。亜利は頭にぐるぐる包帯巻かれて、みんなが話しかけても、一言も話さなかったのを覚えている」

 え、頭に怪我をしたの。

 ルリコは、この言葉が気になった。

 オランダのピーター・フルコスは、梯子から落ち、頭を強打して入院してから、サイコメトリーの能力を発揮するようになったという。松村にも、同じことが起きんじゃないかしら。

 しかしここで、母親が我慢しきれないというように口をはさんだ。

「私が聞いたところでは、フセイン君は、本当はファーティマさんの親戚筋の子で、お父さんの松村さんが養子にしたということですよ。なにしろ、突然松村さんのお宅に子供が増えたので、お母さん方のあいだで、少しばかり噂になってましたよ」

 それから母親は立ったまま、大手企業のエンジニアとしてイランで働いていた松村の父親が、現地で知り合ったイラン人のファーティマという女性と結婚し、生まれた子が亜利だったこと、幼稚園時代に、母親の親戚筋の子供を養子にし、同じ幼稚園に通わせていたこと、母親が息子二人を乗せて車を運転中、衝突事故にあって母親とフセインが死に、亜利も大怪我をしたこと、などを、順を追って説明してくれた。

 ルリコは、上半身をひねって顔を母親に向け、この説明を聞いた。

 幼稚園児だった新一より、この母親の記憶の方が確かなようだ。

「すいません。衝突、ということは、相手がいたんですよね。相手はどうなりました」

「事故は、全面的に相手側に責任があったようです。相手も怪我をしたようですが、何でも、どこかの大使館の車だったそうですよ」

「大使館?いったいどこの国ですか」

 母親は、またしても首を傾げた。

「さあ、それは・・、どこだったかしら・・・。誰かから聞いたような気もするけど、聞いてないかもしれないです」

 要するに、覚えていないということだ。

 そこで、ルリコはあらためて新一に向き直った。

「退院後、亜利君の様子はどうでした」

「一旦幼稚園に戻ってきたけど、これまでと違って、誰とも話をしなくなったな」

「誰とも話をしなくなった?他に、何か変化はありませんでした?」

「そうだな、なんだか、以前と違うような感じはしたけど・・・。でもしばらくすると、父親と一緒にどこかに引っ越したんだ」

 引っ越した?何が理由だろう?それに、どこへ?

「どこへ行かれたのか、わかりませんか」

「母さん、覚えてる」

 新一は、ルリコの頭越しに、母親に呼びかけた。

「さあ、確か、山梨とか、そんなこと言ってたわ」

 山梨?松村は山梨にいたの?

 ルリコの母親の実家は、山梨にある。意外なつながりだった。

 ルリコは、もう一度母親を向いた。

「山梨といっても、具体的にどこか、覚えてらっしゃいません。甲府だとか、甲州だとか」

「さあ、詳しい住所までは、聞いていません・・・」

 ルリコは、松村父子の移転先を聞くのは諦めた。

「では、当時の松村亜利君の写真とか、お持ちになってないですか」

「家にあるかもしれないよ」

 今度は、新一がぼそりと言った。ルリコはまたも向き直った。

 どうも、前後を挟む二人と会話するというのはやりにくい。二人に勧められて、うかうかと椅子に腰をおろしたのが、失敗だったかもしれない。

「お宅は、どちらなんですか」

「ああ、この先だよ」

「よかったら、一緒にいらっしゃませんか」

 今度は、母親が背後からだ。

 こうしてルリコは、新一とその母親に案内されて、イチゴ園のはずれにある高梨家の門をくぐった。

 ルリコとしては、玄関で写真だけ確認して失礼する心積もりだったが、母親がしきりに屋内に招いたので、最後にはルリコも断りきれなくなった。

「失礼します」

 玄関で靴を脱いで、食堂兼用の居間に上がりこんだ。

 テーブルに就くと、母親がお茶を出してくれた。それから母親は、冷蔵庫を開けて中を覗き込んだ。

「何かないかしら」

 どうやら、お茶請けになりそうなものを探しているらしかったが、適当なものは見つからなかったようだ。結局母親は、流しの上の食器入れから、開いたビスケットのパックをとりだし、何枚か皿に乗せて出してくれた。

「どうぞ、召し上がってください」

 母親は、ビスケットの皿をルリコの前に置くと、そのまま向かいの席に腰を降ろし、ルリコの身の上についていろいろ訊ねるのだった。

 今年何歳になるかとか、家族は何をしているのかとか、つきあっている男性はいるのかとか、母親は、かなり立ち入ったプライベートな内容にまで、ぶしつけに踏み込んできた。

 この居心地の悪い時間帯を、ルリコは、適当に返事をはぐらかしながらやり過ごしていたが、そのうち母親がこう言った。

「うちの新一、どう思います」

「どうって、その、素朴な、良い人だと思いますけど」

 確かに、世間ずれしていない、朴訥な青年だという気がしている。その意味で、ルリコの言葉は嘘ではない。しかし、母親はどうやら違う解釈をしたようだ。

「そうでしょ、皆さんそうおっしゃるんですよ。でも、どういうわけか縁が遠くてね。もうそれなりの歳なんですけど、ルリコさん、でしたっけ、どなたか良い人をご存じないですか」

 暗に、新一と付き合ってくれないか、とルリコにほのめかしているのだろうか。

「そうですね、私の知り合いだと・・・」

 ルリコが返答に窮していると、タイミングよく新一が戻ってきた。

 両手で捧げるようにして、厚手のアルバムを持って入ってきた。

「これだよ。これに、亜利の写真もあるはずだ」

 新一はルリコの右側に座り、アルバムをテーブルに置いて、自分でめくりはじめた。

 隣からそっと覗いてみると、写真は丸顔の新一が大写しになったものばかりだったが、他の児童が一緒に写っている集合写真のようなものも何枚かあった。

「あら、これ学芸会の時じゃない。こっちは運動会の写真ね」

 母親は、ルリコそっちのけで家族の思い出にふけっているようだ。突然、新一が声をあげた。

「あった。これが、亜利だよ。一緒にいるのがフセインとそのお母さんだ」

 ルリコも、母親と一緒に写真を覗きこんだ。

 そこには、幼い新一と一緒に、二人の幼児と、スカーフで頭に覆った美しい女性が写っていた。

「あら、これはイチゴ狩のときね。ファーティマさんと一緒に撮ったのね。こっちが亜利君で、こっちがフセイン君だっけ」

「どっちがどっちだったかな。こうしてみると、二人ともそっくりだね。なんだか見分けがつかないよ」

 確かに、新一と一緒の二人は顔立ちがとてもよく似ていた。ファーティマという母親は、目がぱっちりして彫りが深く、本当にエキゾチックできれいな人だった。

 ルリコは、ここではもうこれ以上情報は得られないと判断したが、最後に、母親にこう訊ねてみた。

「松村さん親子が、よくイチゴ狩にいらしたとおっしゃってましたが、奥さんは、ファーティマさんとは親しかったのですか」

 母親は、またしても考え込んでしまった。

「親しかった・・・?というのかしら、PTAの会合では普通に話してたし、ときどきイチゴ狩にも来てくれたけど・・・」

 どうやら、それほど親密な関係でもなかったようだ。

「なにしろ、あの人イスラム教徒でしょ。イチゴなんかの果物は問題ないらしいんですけど、料理を出そうとすると、豚肉は入ってないか、とか、アルコールは使ってないか、とか、いろいろ訊ねてきて、結局はあまり口にしなかったりするんですよ。それに、日本語も最後までたどたどしかったし、・・・。でも、私以外には、話し相手になる人もそんなにいなかったようでしたね・・・」

 確かにイスラム教徒は、戒律で飲酒を禁じられている。では、イスラム教徒を母親に持つ亜利はどうなのだろう。もし亜利もイスラム教徒なら、ホストクラブを経営するなんてどういうことだろう。もしかしたら、親がイスラム教徒でも、子供が必ず同じ宗教を信じる義務はないのだろうか。

 ルリコはその場で考えたが、結論は出なかった。

 結局高梨家では、亜利の幼稚園時代の顔写真を見た以上には収穫がなかったように思えたが、ルリコはとりあえず丁重に礼を述べて、高梨家を出た。

 母親は、新一に車で駅まで送るよう盛んに促していたが、ルリコの方で遠慮した。

 最後に母親は、いったんハウスに立ち寄って、透明なパック二箱分のイチゴをおみやげにくれた。

 今夜の夕食の足しになるかもしれない。

 ハウスの入り口からちらりと見ると、父親は一人で、黙々と農作業を続けていた。

 

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