火曜日のルリコ(9)
こいつ、かなり小心者らしい。そういえば、病院での警官に対する態度もけっこう卑屈だった。
「でも、本当にアメリカ大統領が日本の総理夫人に殺されたりしたら、ただじゃすまないわよ。また戦争になるかもね。また原爆を落とされるかも」
優子は、職業上の鉄面皮を装っているが、それでも声に、少しばかり力がこもっていた。
「でも優子さん、何で松村は、そんな恐ろしいことをやろうとしてるんでしょう」
「ルリコが言ってたの。松村の母親と弟は、ある大使館の車と衝突して死んだって。この大使館というのが、アメリカ大使館だとしたら」
「優子、ちょっと待ってよ。自動車事故なら、ちゃんと保険に入ってるはずよね。それなりの保険金は出たんじゃないの」
「ルリコさん。そうでもないんだ。日本人なら自賠責保険は必ず入らなきゃならないけど、治外法権の外交官にはその義務はない。それに、外交官の車は車検を受ける必要もないんだ」
「え、そんな。本当に」
ルリコの声も高くなった。
「そうなんだ。外交官車両の管理は、陸運局じゃなくて外務省が行ってる。車検は陸運局の管轄だけど、外交官車両はその対象外なんだ」
「それじゃ、かなりのポンコツ車とか、日本の道交法に違反する車だってあるってことなの」
「どうもそうらしいよ」
「でもちょっと待って、相手がアメリカ大使館なら、それなりの補償はもらえたんじゃないの。それに、たとえ自分の母親や兄弟がアメリカの外交官に殺されたからって、大統領を殺そうと思う」
ルリコの疑問に、優子はこう答えた。
「それはわからないわ。自分の肉親を殺されたら、いくらお金をもらったって恨みは消えないわ。それに松村って、イラン人と日本人のハーフなんでしょ。イランといえばシーア派のイスラム教よ。イスラム教徒には、自爆テロだって辞さない人たちがいっぱいいるじゃない」
それは、偏見かもしれない。
ルリコはそう思った。しかし、母親と弟を殺された松村がアメリカに対してどういう感情を抱くか自分には判断できない、とも思った。
「とにかく、このままにしておくわけにいかないわ。私、明日は仕事休みだから、行ってみる」
「行ってみるって、どこへ」
「決まってるじゃない、カルバラよ」
「え」
ルリコと久保田が同時に叫んだ。それから、お互いに顔を見合わせた。申し合わせたように二人同時にうなずいてから、久保田が言った。
「優子さん。それはいけないよ。優子さんの言うとおり、松村が人の心を操ることができるんなら、優子さんだって危ないよ。そんな危険なことはやめたほうがいいよ」
「私もそう思う。久保田さんの言うとおりだわ。やめたほうがいいと思う」
ルリコも援護した。しかし、優子は頑固だった。
「駄目よ。今、松村の計画を知ってるのは私たちだけなのよ。何とかできるのは、私たちだけよ」
「警察に通報した方がいい、と僕は思いますけど」
久保田は、かなり腰が引けている。
「警察にこんな話をして、信じてくれると思う。頭がおかしいと思われるだけよ。だって、何の証拠もないじゃない」
優子の言うとおりだ。松村がキール大統領暗殺を計画しているという確たる物的証拠は、一切ない。現時点では、あくまでも優子の想像であって、裏付けるものはまるでないのだ。
手帳に残された文字は、明らかにルリコ自身の手書きだから、警察に見せても信用されるはずがない。大田原や池田が、松村と接点があったことは警察も把握し、もしかしたら松村を参考人として聴取しているかもしれないが、二人が松村のことを覚えていないのは、単に二人が精神的ショックを受けたものとして処理されるだろう。
なにより、こうした状況をアメリカ大統領暗殺に結びつけること自体、話が飛躍しすぎている。もしかしたら優子の妄想かもしれない。だけど、もし優子の言うとおりだとしたら・・・。
今のところこの恐ろしい計画を知っているのは、ここにいる三人だけということになる。阻止できるのも、ルリコたちだけなのか。あまりにも荷が重すぎる。
ルリコは、軽い絶望を感じた。同時に、孤独感を覚えた。
「優子、いったい、どうするつもりなの」
「面と向かって、計画を暴いてやるわ。そして、思いとどまるよう勧めるの」
「大丈夫ですか、優子さん」
久保田の顔は、すっかり青ざめていた。
「大丈夫よ。私、男性客の扱いはけっこううまいのよ」
「優子、相手はお金持ちの道楽者とは違うのよ。キャバクラの客と一緒にしちゃいけないわ。だって、人の心を操るんでしょ」
キャバクラ、という言葉を出してしまい、ルリコは一瞬しまった、と思ったが、優子は気にした様子もなく、静かに続けた。
「私だって、霊能あるのよ。そう簡単には、やられないわ」
厚めのメイクの上からでも、優子の頬が、少し紅潮してるのがわかった。
こういうのをドヤ顔というのだろうか。でも、優子のこんな顔は始めてみた。
いつもふわふわしてとらえどころのない雰囲気だが、普段から自信には満ち溢れていた。ルリコは、優子のこの自信をいつもうらやましく思っていたが、このときは不安の方が先に立った。
「霊感ホストと、スピリチュアル・キャバ嬢の対決ってわけよ。応援してね」
自らを「キャバ嬢」と称したことに、ルリコは、優子の屈折した気持ちを垣間見たような気がした。
自嘲気味に微笑んではいたが、優子の表情は硬かった。見ようによっては、すこしばかりひきつってるようにも思えた。
とにかく、優子の命だけは、何としても守らなければならない。
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