火曜日のルリコ(16)
ルリコがその日曜に訪れたのは、日本イスラーム連盟の事務所だった。
事務所といっても、探し当てた住所は都内のマンションの一室にあり、表札には「宗教法人日本イスラーム連盟」とあった。
どうやら、多くの日本人が「イスラム」と呼んでいる宗教は、正式には「イスラーム」と伸ばして発音するらしい。
ドアの脇のインターホンのボタンを押す。スピーカーを通じて、室内のチャイムの音が聞こえる。
「どなたですか」
インターホンから、女性の声が応答した。
「すいません、私、木曜にお電話差し上げた、『週刊セブン』の白井と申します」
「お待ちください」
ドアの向こうで、誰かが鍵を開ける音がする。
そっとドアが開いて、顔を覗かせたのは、丸顔の眼鏡の女性だった。
髪は、すっかりスカーフで覆い隠している。スカートも、足先まで隠れる長いものだ。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
ルリコが少し頭を下げると、この女性はにこやかに応じた。
「構いませんよ、どうぞお入りください」
ルリコにとって、日本人のムスリム女性を見るのは初めてだった。
実際に出会う前は、いったいどんな人種だろうと想像をたくましくしていたが、この女性は服装を除けば、他の日本の中年女性と変わりなかった。
室内には、普通の部屋と同じように玄関があり、上がりがまちにスリッパが一足用意してあった。
どうやら、通常の居住用マンションを協会の事務所として使っているらしい。
「どうぞ、お上がりください」
女性に促されて靴を脱ぎ、スリッパを履いて奥に入る。
リビングは事務室になっていて、机が三脚並び、それぞれの机上にはパソコンが置いてあった。
パソコンの周囲には、ピンクのプラスチックのマグカップやら、鉛筆立てが並び、鉛筆には動物キャラのフィギュアもしがみついていた。パソコンの横には、家族写真の入った写真立てもあった。
マンションの一室であることを除けば、普通のオフィスと変わらない。
ただ本棚には、ルリコの読めないうねうねとした文字が背に書かれた分厚い書物が並び、壁に掛かった時計の数字も、ルリコにはなじみのないものだった。
室内では、もうとっくに定年を過ぎたのではないかと思しき、年配の眼鏡をかけた男性が机に向かっていた。ルリコがリビングに入ると、男が立ち上がって、にこやかに出迎えてくれた。
「ようこそ」
そう言って男は、狭苦しく並べられた机の隙間を縫ってルリコに近寄り、名刺を差し出した。名刺には、「宗教法人日本イスラーム連盟事務局長並木アブドッラー伸太郎」とあった。
「『週刊セブン』の白井ルリコといいます。今日は日曜なのに、お邪魔してすいません」
ルリコも、挨拶を返しながら名刺を渡す。
「大丈夫ですよ。うちの事務所は金曜を休みにしていますから。といっても、私はここに住んでるから、いつだっていますけどね」
並木の机の後ろ、ベランダに面したガラス戸の前には、小ぶりのソファセットが置いてあり、並木はルリコをそこに案内した。
二人は、背の低い、寄木細工のテーブルを挟んで、向き合って座った。
テーブルは、一辺が三ミリくらいの小さな三角形やひし形をベースとした、無数の幾何学模様で覆われていた。ルリコが初めて見るほど、精巧な細工だった。これが、アラベスク模様というものなのだろうか。
「テーブルが気に入ったようですね」
「え、ああ、すいません。これまでこんなテーブル、見たことがないもんですから」
「それは、シリアの寄木細工です。ダマスカスもアレッポも、アラブ的な風情を色濃く残した、情緒のある街だったんですけどね」
最後が過去形になったのは、今の内戦状態をほのめかしているのだろう、とルリコは思った。
そこに、最初の女性が飲み物の入ったグラスを運んできて、寄木細工のテーブルにコースターを敷いてから置いた。入っている液体は紅茶よりも明るい、少し紫のかった鮮やかな赤色をしていた。
ルリコはつい、ものめずらしそうに覗きこんでしまった。
「カルカディーヤです。ハイビスカスのお茶ですよ」
並木が解説してくれる。
「とってもきれいな色ですね。失礼していただきます」
一口すすると、甘い、濃い味が口一杯に広がった。
「おいしいです。これ、とてもおいしいわ」
「それはよかった。エジプトやスーダンだと、一山いくらで本当に安く買えるんですけどね」
どうやらこの事務所には、今日は並木と、秘書役の先ほどの女性しかいないらしい。
ルリコが、カルカディーヤのグラスを一度テーブルに戻すと、並木がさっそく訊ねた。
「今日は、どんなご用件なんですか」
電話ではルリコは、あえて松村のことを伝えていなかった。
ネット情報では、日本イスラーム連盟なるものは、日本に住むイスラム教徒のため様々な便宜を図ったり、いろいろな情報提供をする組織ということで、まじめなムスリムなら必ず連絡をとってくるらしかった。
そこで、もしかしたら松村の両親のことが聞けるかもしれないと思い、取材を申し込んだのだ。ルリコにすれば、何か新しい情報があれば儲けものという程度で、それほど期待していたわけでもなかった。
「じつは、私の昔の知り合いで、イラン人女性と結婚していた方がいたんですが、もしかしてその人の消息がわからないかと思いまして」
並木は、少し身を乗り出した。
「イラン人男性と結婚した日本の女性はけっこういますが、イラン人女性と結婚した日本人男性はあまりいないと思います。その人のお名前は、何とおっしゃいます」
「二十数年前、神奈川県の平塚に住んでおられた、松村さん、というんですが」
「松村?ヌールッディーンのことかな」
「ヌールッディーン?それが、お名前だったんですか」
並木が、少しばかり相好を崩した。
「失礼、なにしろ我々はいつも、ムスリム名で呼び合うもんでね」
「すみません。旦那さんも、イスラム教徒だったんですか」
並木は、まじまじとルリコを見つめた。
「そりゃそうだよ。ムスリム女性と結婚する異教徒の男性は、イスラームに入信しないといけない。当然ムスリムになって、入信の際ムスリム名をもらうんだ」
母親だけでなく、父親も改宗しているとなると、亜利もきっとイスラム教徒なのだろう。そういえば、彼は優子と対決したとき、酒を飲まないと言っていた。それも宗教上の理由だったのだろうか。でも、そんなに信心深い人間が優子を殺そうとするなんて・・・。いや、優子だけじゃない、ルリコだって危うくその毒牙にかかるところだったようだ。それに、キール大統領のことも・・・。
「ムスリム名が、ヌールッディーン、なんですね」
「そうなんだ。私たちはだいたいヌールッディーンと呼んでたから、日本名をど忘れしてしまったよ。本名は何といったかな。荒川さん、覚えてない」
並木が、先ほどの女性に呼びかけた。
「さあ、でも、霊園のファイルに記録が残ってるはずですよ」
「すまないけど、ちょっと調べてもらえないかな」
「わかりました」
並木が、ルリコに向き直った。
「平塚に住んでいて、イラン人女性と結婚していた松村といったら、きっとヌールッディーンだよ。奥さんはファーティマさんといって、とっても美人だったね」
「はい、そうです。とってもお綺麗な方でした」
「でも、白井さん、だっけ、あなたはヌールッディーン、いや、松村さんとは、どういうお知り合いだったの」
「はい、じつは私、子供のころ平塚に住んでまして、よく松村さんのお宅でお世話になったんです。亜利君やフセイン君とも幼稚園が一緒でしたが、奥さんとフセイン君が事故で死んでしまって、松村さんもどこかへ引っ越してしまったものですから、お礼も言えないまま今まできてしまったんです」
高梨の話を借用したでまかせだった。しかし、並木は食いついてきた。
「ああ、亜利君、それにフセイン君。ヌールッディーンとファーティマさんの息子さんだね。そうか、あなた、松村一家と知り合いだったのか」
どうやら並木は、ルリコの話を完全に信用したようだ。このぶんだと、松村亜利のこともうまく聞き出せるかもしれない。
「亜利君は、最近自分の店を開いたそうで、写真週刊誌にも載ってました」
ルリコの言葉に、並木は少しばかり眉を寄せた。
「亜利君のことは、うわさで聞いてるよ。ご両親はどちらも立派なムスリムだったのに、亜利は今、水商売だそうだね」
「でも、亜利さんの名誉のために言いますと、彼、お酒は飲まないんだそうです」
「君は、亜利と会ったのかい」
「いえ、私の知り合いが、偶然彼の店に入って、そのとき話してくれたそうです。私も、そのうち会いに行きたいと思ってるんですが、でも、私、あの手のお店はちょっと」
「うんうん、わかるよ」
並木は、ひとりで何度もうなずいて言った。
「たとえ自分が飲まないとしても、あまりアルコール類に近づくべきじゃないよ。『クルアーン』で禁じられてるんだからね。ましてあんな商売なんてね」
「ところで、お父さんの方は、平塚からどこへ行かれたのか、ご存じないですか」
並木は、右手の中指で眼鏡を少し押し上げた。
「うん、平塚から引っ越した後のことを知りたいんだったね。ヌールッディーンなら、亜利と一緒に、山梨の塩山に引っ越したんだよ。ファーティマさんとフセイン君の墓が近くにあるからだろうね。塩山では、自分の技能を活かして電器屋をやってたらしい。なにしろ、もとは電気関係の技師として大企業に勤めてたからね。だけど、それから十何年かして、火事で死んでしまったよ」
「お父さんは、亡くなられたんですか」
「ああ、もう十年少々前になるかな。警察によれば、漏電による失火だと聞いたよ。本当に、立派なムスリムだったのにね。うちの連盟で、山梨まで人を送って葬儀を執り行い、ファーティマさんやフセイン君と同じ墓地に葬ったよ」
十数年前というと、亜利はまだ二十そこそこだ。もうホストになっていたのだろうか?それとも、大学生?
「そのとき、亜利君は何をしてたんですか」
「ああ、亜利か。そのときは、まだ大学生だったかな。高校のときは喧嘩ばかりで、けっこう近所のうわさにもなってたんだが、父親の葬儀のときはちゃんと作法どおりにこなして、立派に更正したもんだと思ったよ。だけど、学生時代から水商売に飛び込んでしまってね、本当に残念なことだ」
並木は、松村一家のことを、かなり詳しく知っていた。
しかし彼の口ぶりからすると、亜利が爆発物等取締法違反で逮捕されたことは、まだ承知していないようだ。ルリコにも、あえてその話題を持ち出すメリットがあるように思えなかったので、黙っていた。他方、亜利のその後については、どんな情報でもありがたかった。
「ファーティマさん、亜利さんのお母さんですね。私も幼くて、当時はまったくわからなかったんですけど、後で聞いたところでは、外交官の車と衝突して亡くなられたんですよね」
並木は、ひとつ大きくうなづいて、言った。
「よくご存知だね。相手は、アフリカの小国の外交官だったよ」
「え、アメリカじゃないんですか」
並木は今度は、ゆっくりと首を振った。この男の特質なのか、ひとつひとつの動作が大きく、ゆったりとしていた。
「違うよ。アメリカなんて、誰に聞いたんだい。具体的な国名は忘れたが、アフリカの小さなイスラーム国だった。イスラーム国のくせに、その外交官が酒を飲んで酔っ払ったまま運転してたんだよ。そのときは私も腹が立ってね、だからあのときのことはよく覚えている。おまけに自動車保険にも入っていないし、当の外交官は外交特権を盾にさっさと帰国してしまったんだ。大使館にかけあっても、個人の事故だからといって、結局ヌールッディーンには一銭も払わなかったらしい」
アフリカの一部諸国が、外交特権を利用して違法行為を行っていた話をルリコも聞いたことがある。
『週刊セブン』でも、ある国の大使公邸でバカラ賭博を開帳していた事件を報じたことがあり、ルリコもリサーチで協力した。
「そのとき、亜利君の兄弟、フセイン君も一緒に死んだんですね」
「ああ、フセイン君も本当にかわいそうな子でね。本当はヌールッディーンの子じゃなくて、ファーティマさんの甥にあたるんだけど、何しろイラン・イラク戦争で両親を亡くしたんだ。まったく、イスラーム国家同士で戦争するなんて、本当にばかげた戦争だったが、フセイン君のような犠牲者は何十万人もいるよ。しかしヌールッティーンは、本当に立派なムスリムだったね。何の血縁もない、日本人でもないフセイン君を養子にして、わが子同然に育ててたのにね。今は三人で天国にいるに違いないよ。インシャーアッラー」
最後の呪文のような言葉は、ルリコにはわからなかった。
「父親を亡くした後、亜利君はどうなったんですか」
並木は、少し考え込むような表情になった。
「それがね、家が全焼し、ヌールッディーンも亡くなって、一人でどうするのかというときに、なぜか学費や生活費を援助するという人たちが何人も現れてね。彼自身は、金銭的には不自由しないで、ちゃんと大学を卒業したよ。亜利自身は、高校まであちこちで喧嘩にあけくれてたんだが、これもきっと、亡きヌールッディーンの行いに対するアッラーの計らいだろうね。亜利も、大学はまじめに通って留年もしないで卒業したって話だが、学生時代からアルバイトで水商売をしていたって話だよ」
そこへ、先ほどの荒川という女性が、四つ穴ファイルを手に近づいて、口をはさんだ。
「並木さん。ヌールッディーンの日本名は雄介です。雄雌の雄に介護の介。雄介です」
並木は、荒川という女性の方を向いた。
「そう、そうだったね。雄介、松村雄介だ」
それから、ルリコを向き直った。
「松村雄介だよ。雄雌の雄に介護の介。雄介だ」
ルリコも調子をあわせた。
「そうでした。私も思い出しました」
「すまないね、我々は彼のことをヌールッディーンとしか呼ばないもんでね。ちなみにアラビア語で、宗教の光という意味だよ」
「宗教の光、ですか」
ルリコは、意味もなく繰り返した。
どうやらムスリムになると、こうしたアラビア語の名前を付けられるらしい。よくわからないが、キリスト教の洗礼名と同じようなものなのだろうか。しかし、日本人同士がこんなアラビア名で呼び合う様子は、ルリコには少しばかり奇妙に思えた。
「ところで、亜利君、高校時代は素行が悪かったようにおっしゃってましたが」
「ああ、私もそんな詳しく聞いてるわけじゃないけどね。葬儀だか、霊園の管理だかで塩山に行ったとき、ヌールッディーンが打ち明けてくれたよ。詳しいことは、彼も言わなかったけどね」
「でも、何で松村さんはご家族を山梨に葬ったんですか。霊園なら、平塚にだってありますが」
並木が、またしてもルリコを見つめた。
「イスラーム教徒の葬式には、それなりの作法があるんだ。まず火葬にしてはいけない。絶対に死体を焼いてはいけないんだ。焼いたりしたら、終末のとき復活できなくなる。そうなると、日本の普通の霊園では埋葬してもらえない。死して屍の行き場所がないんだ。そこでうちの連盟で山梨に土地を確保し、専用の埋葬場所を運営してるんだ。少しばかり遠いけど、都内にはなかなか適当な場所がないんで、仕方ないんだ」
それから並木は、自分の机に戻っている荒川という女性にこう呼びかけた。
「荒川さん、うちの霊園の案内あるよね」
「はい」
「一枚持ってきてくれ」
荒川は立ち上がり、机の前のファイルから一枚紙の印刷物を抜き出すと、並木のところにやってきて手渡した。
「これがうちの霊園の案内だよ。お嬢さんも入信すると、ここで安らかに眠ることができるよ」
最後の言葉は親切からなのだろうか?それとも、冗談のつもりだったのだろうか。
いずれにしてもルリコにとっては、ブラックジョークにしか聞こえなかった。
「この場所に、松村さんたちが眠っているんですね」
「そうだよ」
「一度、お墓参りに行きたいんですが、よろしいですか」
この言葉を、並木は改宗の脈ありと思ったのかもしれない。言葉が踊っていた。
「ああ、いいよ。ぜひ行ってあげなさい。ヌールッディーンたちも喜ぶよ。できれば霊園の様子もしっかり見てくるといい。あの場所はいいよ。亜利君も、ときどきお墓参りに行ってるらしい」
「え、イスラム教徒の人も、お墓参りって、するんですか」
並木は、一人で何度もうなずいた。
「うんうん、イスラームの教えでは、死者は墓の中でずっと眠っていて、最後の審判の時に生きていたときの姿で復活し、アッラーの裁きを受けるんだ。キリスト教と同じだよ。だから遺族は、お祭りのときなどにお墓を訪れて、死んだ人が天国に行きますようにと祈るんだよ。最近の家族のことなんかも、墓の下の家族に報告したりするんだ。日本のお盆と同じだよ。もっとも、サウジアラビアのような厳格な宗派の国は、少しばかり違うけどね」
「お墓で、亜利君と会われたことがあるんですか」
「こちらも、山梨の霊園まで、そうしょっちゅう行くわけじゃないけど、あれは二週間ほど前のことだったかな。ちょっとした手入れのために霊園に行ったら、亜利君がヌールッディーンの墓にいたよ。なにか報告でもあったのかな」
その後は、イラン・イラク戦争のことや、ムスリムの世界観など、並木が一方的に話し続けた。取材が終わったときは、もうとっくにお昼を回っていた。
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