火曜日のルリコ(3)
新宿から山手線で品川に回り、京浜東北線で蒲田に出た。
今朝の警官は、蒲田の駅前交番勤務ということだったので、茶髪の男性の連絡先を教えてもらおうと思ったのだ。
電車はそろそろ混み始めていたが、ルリコは何とか座席を確保し、自分の手帳の破れたページを開いて眺めていた。とじ目部分にわずかに残ったぎざぎざの紙片が、確かにここにページがあったことを証していた。
私がこのページを破ったのだろうか。だとしたらなぜだろう。そもそもこのページには、優子との約束の他に何が書いてあったのか。
何も思い出せなかった。
交番では、生意気な若い警官の代わりに、年配の温厚そうな交番相談員が対応してくれた。
時期が時期だけに、今は末端の交番勤務の巡査までかりだされているということだった。
この老人はけっこう親切で、調書をめくって男の連絡先を調べて、こう言った。
「事件性はないということになったのだが、個人情報保護の関係もあって、勝手に他人の連絡先を教えることはできないんですよ。私が先方に連絡して、了解が得られたら連絡します」
ルリコは、自分の携帯番号を残して退散した。
そこから、昨夜自分がいたはずの踏切に回った。
蒲田駅は、駅構内を通って東口から西口に抜けることができるが、意地を張って踏み切りを使おうとするとけっこう遠回りになる。
警官に教えてもらった踏み切りも、古くからある線路沿いの繁華街を通り抜けた場所にあり、昼間でも利用する人は少ないようだ。
遮断機の脇には、痴漢に注意と書かれた立て看板もあった。その看板が立てかけられた電柱には、蒲田駅前図書館という案内があった。
図書館!
ふと思いついて、矢印とスマホの地図を頼りに図書館に向かった。
蒲田の駅前図書館は、蒲田駅東口を出て少し南に下がったところ、消費者生活センターの三階にあった。エレベータで三階に上ると、それなりのスペースに書棚が狭苦しく並んだ、けっこう立派な図書館があった。
雑誌のコーナーもかなり充実していたが、ルリコが仕事をもらっている『週刊セブン』はなかった。
なんとなく残念に感じながらも、とりあえず館内を歩いて鉛筆を探した。
すぐに、雑誌コーナー近くの、資料検索用モニター画面の前に、円筒形の鉛筆立てを見つけた。尖った方を下にして、何本か鉛筆も差し込んである。
ルリコは、端末の前に立って鉛筆を一本とりあげ、自分の手帳の、破り取られた次のページを塗り潰してみた。ページを黒く塗りつぶすと、一つ前のページにおしつけられたボールペンの跡が、次第に白く浮き上がってきた。
「え」
うっすらと浮き上がった文字を見て、ルリコは思わず声を上げた。周囲を気にして見回したが、誰もルリコに気をとめていないようだった。
筆圧が低いためはっきりしない線もあったが、カナ文字だったから、何度見返しても、読み間違えようがなかった。
あきらかにルリコの手書き、それも大急ぎで書きなぐった筆跡だったが、自分でこれを書いた覚えはまったくなかった。
アパートに帰り、扉を開けるや否や、ムーがすごい勢いで飛び出してきた。
靴を脱ごうとするルリコにかまわず、玄関まで走り出てきて、長く尾を引く声で盛んに鳴きながら、ルリコを見上げていた。
昨夜帰宅してないから、彼女は一日絶食を強いられたわけだ。
運動不足でしっかり太っているから、少しくらい断食した方が健康には良いのかもしれないが、ムーにとって、それはあまりにも我慢できないことなのだろう。ついには後足で立ち上がり、胴体と前足を思い切り伸ばして、ルリコの太もものあたりをたたき続けた。
爪が出ていたら、引っかき傷がいくつもできたところだ。
「ごめんね、少し待ってね」
荒れ狂うムーをつかまえて、足の裏を無理やり上がりがまちの雑巾に押し付け、部屋に入ると、ムーも鳴きながらついてきた。
面積で言えば全体で十疊もないくらいの、狭いワンルームではあるが、駅から近くて家賃が安いのが気に入っている。
玄関からは、片側にバスとトイレ、反対側に小さなキッチンと洗濯スペースとがある短い廊下のようなスペースを抜けて、ささやかなリビングに入る構造になっている。
四畳少々のリビングの一方の壁には、衣類を吊るすビニール製の古い衣装ケース、季節外れの服や日用品を詰めておく三段重ねのプラスチック・ボックス、ほぼ正方形の小型冷蔵庫とその上に乗った資料整理用の三段ボックスが並んでいる。
反対の壁の一番奥には、突当りの窓に向かって小さな机が置いてある。窓の隣に下がる小さな鏡が、三面鏡代わりだ。
スペースを節約するためベッドは置かず、毎朝起きると布団をパジャマごと丸め込み、寝るときはまた床に伸ばしている。しかし、時には卓袱台代わりに机の後ろに置いている電気炬燵に座り込み、ビールをあおったまま押入れの扉によりかかって寝てしまうことも、ままある。
この炬燵を折りたたみ、隅に立てかければ、何とか標準サイズの日本人二人が横になるスペースは確保できるが、この部屋に泊まりにくるような人物などいないし、予備の敷布団もない。
家族といえば、白いデボンレックスのムーだけ。
もちろんルリコには、この種のペットを店で買ってくるほど余裕はない。数年前親しくしていたネコ好きの女性から、誕生日にプレゼントされて断りきれず、そのまま飼い続けているのだ。
ふんわりした綿毛のムーは、時にはルリコの癒しになるが、ネコという動物はいつだってこっちの状況にはお構いなく、自分のやりたいことをやろうとする。
シンクの下から買い置きのキャットフードを取り出し、箱を開いて皿に移す間も、ムーは、瞳孔を最大に広げて、小さな鋭い牙をむき出しにして、ひたすら鳴き続けていた。
ムーが、待ち望んでいた餌の皿に頭を突っ込んでいる間、ルリコは机の上のクリアーファイルを開いた。
ルリコは、資料の整理に、百均で買ったレターファイルやクリアーファイルを使っている。付箋紙の付いたところを開くと、写真雑誌の切抜きが入っていた。
「秋葉原と銀座、二つの事件を予言した霊感ホスト」
大仰なタイトルの下、イケメンではあるが、日本人にしてはかなりくどい顔の男が写っていた。
なんとなく、記事に目を通す。
ヨーロッパの俳優を思わせる彫りの深い端正な顔と鋭い目、茶色に染めた長髪は、二枚目俳優も顔負けだ。スタイルもご覧のとおりのイケメンは、かつて新宿三丁目のホストクラブ「スバル」でナンバーワンと言われたホストの松村亜利氏(三四)。
しかも、ただ格好良いだけじゃない。空手も黒帯という頼れる兄貴なのだ。
先月自分の店「カルバラ」をオープンしたばかりだが、彼には他にも特別な才能がある。なんと予言の力を持つ霊感ホストなのだ。三ヶ月前には、秋葉原で無差別殺人が起こると予言して、予言の一週間後に秋葉原の歩行者天国で男女六人が無差別に刺し殺されるという残忍な事件が起きた。
さらにその数日後、今度は銀座で大変な交通事故が起こると予言したが、先週歩行者天国で賑わう銀座に高級外車が突入し、八人がはねられ、うち三人が死亡したのは記憶に新しいところだろう。
松村氏の能力は、店のお得意さんの間では以前から有名で、なくした忘れ物を捜してもらったとか、友人の自殺を予言されたなどの証言がいくつか得られている。肝心の松村氏に直撃すると、次のようなコメントが返ってきた。
「時々、未来のできごとが脳裏に浮かぶことがあります。それがなぜかはわかりませんが、この能力をお客さんのために役立てることができれば嬉しいです」
あまりにも優等生な答だが、それで店が繁盛するなら万々歳ということだろう。
最後に、予知能力で店の先行きを読んでもらった。すると、「もちろん大繁盛です」と言われてしまった。
ファイルの透明なビニールごと一枚めくると、次は小さな囲み記事の写しだった。タイトルは「韓流の次はイケメンホスト、火野総理も渋い顔」というものだ。
内容は、火野由紀奈総理夫人が、最近できた「カルバラ」というホストクラブに入り浸っているというものだ。そして記事の下には、携帯の電話番号らしき数字と、高梨という名前が書き込まれていた。
これも明らかにルリコの手書きだったが、これらの記事も、この書き込みも、見た記憶がなかった。
携帯のアドレス帳を開くと、高梨という名でこの電話番号が登録されていた。
念のため、通話記録を確認してみた。
昨夜は、編集長から何度も電話が入っており、昼間に優子からの着信があった。画面をずっとスクロールしていくと、三日前に、ルリコの方から高梨に通話した記録が残っていた。
どうやら、この松村というホストに関連する記憶がすべて、ルリコの頭の中から消去されているらしい。
誰かが、ルリコの記憶中枢に無遠慮に手を差し入れてかきまわし、松村にリンクする情報をすべて持ち去ったようだ。
DVDディスクのデータや既読メールの削除でもあるまいし、そもそもそんな現象がありうるのだろうか。仮にありうるとしたら、いったいどうしてそんなことになったのだろう。