【随筆#2】誘いは基本断ってます

 大学時代にお世話になったO君と食事をした際、「それは恵まれた立場からの見方だ」と言われたことがあった。彼とは1年次からの知り合いで、4年次には一緒に哲学の講義を受けたり、聡明で顔立ちも良く、尊敬する人物の1人だったため、この一言が心に強く響いたのを覚えている。
 当時、自分は誰よりも努力を重ね、ここまでやってきた、と言う自負があった。それは間違いではないのだけれど、それ故の傲慢さが自分にはあり、彼はそれを見抜いてくれたんだと思った。努力を重ねたとお前は言うが、そもそも努力することが許されない国や環境に生まれた子供達もいる。努力の総量で人間の価値が決まるなら、努力ができない人たちは無価値になるのかとの問いが、今も自分の中に燻っている。

 それまで努力こそが平等と考えていたが、彼の問いかけによってそうではないことに気づくことができた。彼の意図とは異なるかもしれないが、神が人類に与えた真に平等なものは何かと考えた時、それは「時間」ではないかと考えるようになった。
 体の大きさや運動のセンス、脳の容量などは個々人で異なるが、時間の流れ、1秒の長さだけは地球上で絶対平等なのではないだろうか。スタートラインこそ違えど、時間という資源を使って得た結果までの距離が、人生の軌跡になるんじゃないかというふうに思われた。
 もともと時間の使い方は上手い方だったと思うが、この時からさらにその使い方を意識するようになった。

 引かれるかもしれないが、基本的にカレンダーの予定は半年先まで確定している。毎日株価を見て更新する家計簿は、2年先の年末までの収支が予測して記入してある。そんな自分にとって「今夜空いてる?」なんて言葉は、バッターボックスに立ってすらないのにピッチャーがボールを投げてきたくらい「間に合ってない」印象を受ける。
 1日24時間。どんな人にもこれだけは変わらない絶対の真理。この資源の使い方は自分で決めることができ、仕事で奪われる8時間を除いたとしても、残り16時間は自分の支配下にある。この16時間の使い方を真剣に考えた時、人との食事や遊びがどれだけ大きな価値を持つのか理解することができると思う。

 1人でご飯を食べれば片付けまで入れて45分、人と食事をすれば平均で2時間。この2時間。この2時間を消費するからには、そこから何か学びや気づき、刺激を引き出したいと思ってしまう。
 故に人から誘われるより、基本的に僕から誘いたい。会いたい人、話したい人、相談したい人、SNSの投稿を見たりしながら常に候補を探していて、たまたまその人の住んでるところに出張とか、用事があったりする際はここぞとばかりに連絡している。質問すること、話したいこと、引き出したいことのリストも事前に作っていたりする。
 自分の話なんか早々に終わらせて、あなたの話を聞かせて欲しい。前回会ってから今日までどんな経験をして、どんなことを考えたのか。そこから引き出せる学びが、この2時間に素晴らしい価値を与えてくれるから。

 ここまで書いて気づいていると思うが、僕には友達がほとんどいない。正直に言って10人もいない。マジで面倒くさくて面白くなくてウザい人間だと自分でも思ってる。でも後悔だけはしていない。
 「後悔しない選択をする」。この使い古されてしわくちゃになった言葉を、僕は心から大切にしている。当日急に人から誘われてついていく、あんまり面白くなくて帰宅後に後悔する。こんなことを何回も繰り返してきた。じゃあ後悔しない時間の使い方は何かとなった時、自分は「己の予定に忠実であること、自分が常に時間の支配権を持つこと」だと結論づけた。
 予定を急に変更する。結果楽しければいいが、楽しくなかった時は後悔する。予定を変えさえしなければ、それが良くも悪くても後悔なんかしない。自分が決めたことなんだから。
 時間を自分で支配できない。人と出かけたり食事をすると何時に終わるかわからない。特に大人数の時は尚更で、自分の時間をコントロールできていない状況が、後悔に直結している。

 後悔しない時間の使い方、これが僕にとって、神から与えられた時間という資源を最大限に使う方法だと考えている。例として人との食事を挙げたけれど、後悔しないことの秘訣は「自主的」であることだと思う。
 その食事は自分で計画したものか?その外出は自分が必要だと判断したことか?その行動に自分は納得できているのか?これらの問いの答えがYESであるなら、僕は今日も時間を無駄にせず、上手に使い切ったと満足しながら眠りにつくことができるだろう。

 自分はクズな人間で、天邪鬼なことは自覚している。人から誘われなかったらそれはそれで寂しかったりするし、たまに元気がない時にはそれに気づいて誘って欲しいなんて思ったりもしている。結局、不完全な人間なんだから、正直に気楽に楽しめばいいのだけれど、それができない損な性格だから仕方がない。
 最後になるが、妻と過ごす時間はこれまで書いたことの枠外にある。妻との時間の使い方に上手いか下手かなんて考えたこともないし、そう思える人だからこそ結婚したくなったんだと思う。
 最近、妻の知り合いの方々と食事に行くことがあるが、どれもとても楽しかった。妻との時間が自分にとって無限であるように、妻の周りの世界も、また自分にとって無限の価値を持っているからだと思う。
 妻は太陽で自分はハレー彗星に例えられるだろうか。つい宇宙の彼方の孤独へ飛び去っていく自分を、果てしない重量で遠日点から中心に連れ戻してくれる存在。彼女のおかげで自分はかろうじて太陽系のメンバーでいられる。近づき過ぎると火傷しそうなパワフルさにおいても、妻は太陽に似ていると思う。
 散々強がった割に、最後は惚気ですみませんでした。そして皆さん、やっぱり食事誘ってください。2回に1回は断っちゃうかもしれないけれど、1週間前までに言ってくれたら頑張って気持ち整えます。

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