【随筆#3】なんとなく上等
仕事で松山空港に向かっていた時、着陸直前に「北朝鮮がミサイルを発射した」という知らせを、残り1000ftの上空で受け取った。僕の最初のリアクションは「今それを知ったところでどうしろと?」だったが、次の瞬間には、「もしそのミサイルがこの飛行機に直撃して、自分が死んだら、全ての苦しみから解放されて楽になれる」なんて考えていた。
基本的に人生は不安でしかなかった。なんとなく中学の時から将来が不安で、とりあえず勉強だけはちゃんとした。高校受験も大学受験もとりあえず1番頭良さそうなところを受けた。大学受験はちゃんと2回とも落ちた。
就活も「やりたいこと」より「やりたくないこと」をリストアップして決めた。「残業」「満員電車」「飲み会」これらのやりたくないことを避けた結果、今の仕事に至った。
今までの人生を振り返ってみると、前向きな動機で何かを決めたりしたことが少ないように感じる。なんとなく不安だからやる。なんとなく目の前にあるからやる。夏休みの宿題も初日に全部やるタイプだった。真面目とかそういうことではなく、そこにあるからとりあえずやっとくか、の精神だった。
ただ「なんとなく」に対するエネルギーが人一倍強いので、結果的に上手く行ってるように見えるのかもしれない。
自分は1994年/95年生まれが同級生に当たるが、この同級生が強すぎる。羽生結弦、瀬戸大也、大谷翔平。自分がどんな夢を持って努力して、なけなしの成功を得たとしても、大谷翔平からしたら本当にゴミみたいなもので、自分の年収なんて彼は1週間で超えていく。そう考えると自分の小ささ、なんの才能も与えられなかった人間の弱さを、事あるごとに痛感させられる。そんな自分にも彼は笑顔で「野球しようぜ」なんてきっと優しく言ってくれる。正直完璧な人間ムーヴすぎて、自分には追い討ち以外のなにものでもない。
こんなふうにやりたいことのない人生を生きて、頑張ることを皮肉っている自分の人生は基本的に苦しい。だからこそ死ぬことが怖くないのだろうし、もし死が不可避な状況に陥ったのなら、安らかに目を閉じて運命を受け入れる自信がある。
しかしながらこの歳になると、「なんとなく」も悪くない気がしてくる。希望や理想を持って何かに臨むと、失敗したり思うような結果と違った時に、落胆したり失望したりする。でもなんとなく頑張って気楽にやると、意外といい結果が舞い込んできたりする。
自分は現役で水泳の選手もやっているが、30才近くなっても試合に出続けられるのは、この「なんとなく」のおかげだと思っている。社会人をしながら競技もするなんて普通は続かない。頑張ろうと思えば思うほど、思うように練習できなかったり、結果が出てこない現実が嫌になってくる。実際自分にもそんな時期があったが、「なんとなく」やるようになってからは、むしろ試合でいい結果が出るようになった。無駄な力が抜けるのか、メンタルが安定するのかはわからないが、最低限の科学的な分析と努力をした上での「なんとなく」の力は、意外と悪くない。好きじゃなかった「なんとなく」は、自分の処世術になりつつある。
自分が明確な意思を持っておこなったこと、その数少ないうちの一つは結婚だと思う。確固たる希望がなければ、大学4年生で結婚するなんてことはしないだろう。妻に降りかかる災難があれば弾き返したいし、妻より1日だけ長く生きていたいと思う。妻だけでなく両親や祖父母の存在も、歳をとるごとに大きくなっていって、家族という存在の大切さが自分の生きる意味になっていく。
そんな家族に水泳の試合を見て欲しいと思い、選手人生が終盤に差し掛かり、観客が入れるような大きな大会は最後かもしれないと思ったため、今日東京で行われた試合に、両親と妻に来てもらった。
家族の前で泳ぐのは、普段の試合より変な緊張感があったが、「なんとなく、が俺のやり方だ」なんて考えて、リラックスしてレースに向かった。泳ぎの感触は悪くなかったし、ミスはなかった。タイムは50mの自由型が23秒77で、ベストタイムより0.03秒遅かった。0.03秒なんて誤差だと思うかもしれないが、水泳の世界で、0.03秒自己ベストより遅いというのは確実に原因があり、反省するに値する結果だと思う。
やっぱり「なんとなく」じゃダメだ。緊張を解いたり、何かを長続きさせるには「なんとなく」が効くかもしれないが、大勝負、ここぞという場面では気持ち、ハートの強さがモノを言う。家族の前でベストタイム更新を見せてあげたかった、正直悔しい、可能ならやり直したいとさえ思う。
自分が望んだ結婚が、結果として素晴らしいものであるように、意思があるところにこそ明るい未来がある。そう痛感させられた気がする。「なんとなく」はやめられない。でもそこに一滴の気合いを足していけばいい。「求めよ、さらば与えられん」、2000年前から普遍の真理を、疑う権利も理由もない。