時間.zip
最近、時間の経過が早すぎる。ついこの間夏が来たと思ったら、いつの間にか8月が終わっていた。慣れない仕事に追われているうちにあっという間に1年が過ぎ、情熱を燃やしていたころに立てた目標や夢は一つも叶わないまま、そのころの気持ちはとうにどこかへやってしまった。そんな日々の中でも時間だけは着々と私の中に積み重なっている。
時間は誰にとっても平等である、というのはよく言われていることだが、私にはにわかに信じがたい事実である。周りを見渡すと、様々な人が1年間という時間で多くのことを成し遂げているように見える。彼らが生きる意味を見つけたり、形ある成果を残したりしているのを見ている一方で、私は何も変わっていない気がする。自分の時間だけが早送りされているような感覚がずっとある。何かしないと周囲から取り残されていく、そんな焦りもブログを始めたきっかけだったかもしれない。
頭のいい人によると、若い頃の1年に比べ、歳をとってからの1年のほうが相対的に短く感じるといった法則があるという。4歳児の1年は人生の25%にあたり、40歳の人の1年は人生の2.5%にあたる。この25%と2.5%の差が、時間を早く感じさせるらしい。ではこれが私の焦燥感の原因かというと、そうではない気がする。少なくとも学生時代は時間の経過をたしかに肌で感じていたはずだし、1年前と比較するだけなら数パーセントも変わりはしない。私の時間が加速したのはここ1,2年のことなのだ。
となると原因は「飽き」だろうか。新しいことを経験する時、私たちの感覚は鋭くなり、脳がたくさんの情報を取り込もうとするため体感時間は長くなる。反対に、1度経験したことを再度体験するとき、脳は余計な情報を省くため短く感じるという。はじめて通ったときはどこまでもながく続くと感じられたトンネルが、帰りにはやけに短く感じるのはそのせいだ。仕事でルーティンを繰り返すうちに、記憶の中の同じ部分を脳が切り捨て、より少ない時間の中に記憶を圧縮しているのかもしれない。また聞くところによると、SNSの使用やテレビ、動画の視聴も時間の圧縮を引き起こしやすいという。言われてみれば、昨日見た動画の内容など覚えていないし、リツイートで回ってきたつぶやきなどなおさらだ。終わったあとに残るのは時間が経過したという事実のみである。
このようにして私は時間を浪費し、脳内には時間がなくなった感覚だけが残る。重なる部分の多さゆえに、私の時間の圧縮効率はすごく良い。脳の容量がありあまっている。今はこの空いたスペースに詰めるものを探している。読書がよいだろうか。